百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々

1月28日 生と死を見送る

おじさんが死んだ。告別式に出た。

 

言葉にできそうでできない塊、もやっとしたものが喉元にはりついている。

自分の未来というか、未来を生きていくときに横にいてほしい人について、考えた。

 

私は今まで充電ケーブルというか、愛情をたくさんもらい、たくさん注ぐ相手として私の母を選んできた。

だけど母はずっと隣にはいられない、私の進んでいく未来に行けない、「世代」や「立場」が違うのだ。一言でまとめると「母が老いていく」ということがやっと腑に落ちた。

母は私になにかを継承する側であって、継承される対象ではない。

愛情をたくさんくれていることに感謝して一部を親孝行として恩返しすることはできても、もらった愛情以上の量を(もしくは私なりのスパイスを加えた性質の異なる愛情を)注ぐ相手は母ではなかった。

 

だから母にさしているケーブルを私は別の誰かにさしなおす必要があるんだと、なんだかそんなことを思った。

 

私はきっと、愛する人と一緒に何かを育て、継承していきたいのだと思う。その何かは「子供」である可能性が高いし、でもそうではなくて「作品」とか「地域コミュニティ」とかそういう類のものかもしれない。

子供を持つというのは、ずっと認めてこなかった自分の中の願いだった。母になることは自分が自分ではいられなくなるような恐怖を感じることだったから。

それが今は不思議なくらい溶けていて、真正面から向き合えるようになった。

 

人の死を目の当たりにして生を願うなんてあまりにも出来すぎているなと我ながら思う。

 

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