百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

7月15日(火)

ありゃまもう8時か。二度寝をしていたらこうなった。早くお弁当を作って身支度して家を出ないといけないので書く時間が少ない。やむなし。二度寝だもの。

二度寝は好きなほうだ。お布団でうとうとまどろんでいる時間が好きだから、寝てるのか起きているのかわからないふわふわしたあの時間の先にある二度寝も三度寝も愛している。昔々パートナーは「二度寝は君のつとめ」という名言を発した。まだ二度寝に罪悪感を覚えていた当時の私はその言葉に救われたのだった。今でもその名言を心に刻んでいる。二度寝は私のつとめ。

 

昨日のうちにお弁当の下拵えは済んでいるので今朝は少し余裕がある。閉店間際のスーパーで買い物するのが好きなので、昨夜も台風の風雨が迫るなかウォーキングがてら少し遠くにあるスーパーに出かけて割引のお刺身などを買い、家に戻ってからツナを作るなどの作業をした。閉店間際のスーパーは食材の安さだけではなくて、なんというか雰囲気がいい。店員さんたちの「あともう少し」という疲れと期待の入り混じる空気に、仕事後の彼らの生活のことを思う。彼らにも家族がいたり帰る家があったりすることに、胸がきゅっとなる。時に「早く商品を選んでレジに並んでくれ」と懇願するかのようなあるいは殺気のような気配を放っている店員さんもいて、それほど深く疲れながらも働いてくれていることがありがたいと思いながら、閉店後の彼の帰宅と寝るまでの時間が健やかなものでありますようにと軽く祈りを投げてみたりする。

人の夜の時間(仕事が終わった後の家での暮らし)を想像することが好きで、そういうものを感じやすいのが閉店間際のスーパーと、帰路につく人々の群れる通勤ラッシュな駅で、ただし駅のほうは私が人酔いしやすい体質なのであまり近づかないようにしている。またまた昔々の私が会社員だった頃、電車の混雑がどうしても苦手で、田町のオフィスまでわざわざ井の頭線を使って渋谷を経由して通っていた。今でも中央線は苦手だ。どうしても乗る必要がない限りは総武線に乗ることにしている。

その点、閉店間際のスーパーは人も割とまばらだし良いよ。蛍の光が流れるのを聞きながら、私たちお客が帰った後も品出しやら整理やらいろんな作業が彼らを待っているのだろうなと思いを馳せながら買い物する。私の頭の中はいつもこんなふうに他人の暮らしや人生への興味に溢れていて、だからライフストーリー研究なんてものをやっているわけだけど、10人いれば10通りの人生と価値観のある世界にいま私という個体が生きている、この世界と人間ってなんて面白いんだろうと思いながら買ったひじきを炒めたりマグロを油で煮たりした。

良い夜だった。

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追記ですが、書いて書いてライターズハイになっている今日この頃、noteのほうで新連載を始めました。ずばり「恋愛を通して自己対話を深めて生きやすくなるには」みたいな感じです。みなさんご存知かどうか知りませんが、私は恋愛至上主義でして、恋愛を通して自分と向き合って成長してきたことが多いからです。

 

最近実はちょこちょこと恋愛関係のご相談DMをもらったり、感想のコメントを頂いたりしています。励みになるのですごく嬉しいです。その中でよくある質問が「パートナーシップについてどういう捉え方や向き合い方をして現在にいたるのか」というもので、そのつどなるべく同じことを個別に説明しているのですが、コピペみたいになってきてて申し訳ないなという気持ちがあります。このブログの日記形式だと体系的説明にならないで事例説明ばかりになってしまうのが問題だなあと思ったので、noteのほうにまとめるか!と思い立ったわけです。

心理学と脳科学ベースの話ですが、アドラー哲学なんかも関係しているし、主観的世界のあたりは構築主義社会学も援用しているので、まあ理論好きな人は面白く感じるかもしれないです。スピ系の人にも「理論に落とし込むとこういうことなのか」と納得してもらえるかも、と思いながら書いてます。

(ちなみにスピ系について否定も肯定もしませんが、私の拠り所は輪廻だとかツインレイだとかのオカルト的なスピ系ではないし、そういうのとはむしろ相性悪いかもしれないです、とだけ)

もしご興味あれば覗いてみてくださいな。

 

恋から始める自己対話シリーズ|岡本優(岡本インド研究所)|note(ノート)
恋から始める自己対話シリーズ|岡本優(岡本インド研究所)|note

 

よろしくお願いします!

 

 

7月14日(月)

寝つきにくい夜だった。背中の凝りがひどくて同じ姿勢で寝続けることがなかなかできず、眠りに落ちそう、という頃に耐えきれず動いてしまう。そんなことを繰り返し、結果寝つくまでに2時間近くかかった。

去年の春は坐骨神経痛で足が痛くて泣いていた。腰椎のヘルニアだった。その前から骨格の歪みがひどくて肩こりやら腰痛やら背中の痛みやらいろんなものを発症してきたけど、中学生の頃からずっとそうだったから、痛みのない状態が普通なんだということを知らない。多かれ少なかれみんな痛みを抱えていると思っていた。整体に通うようになって「これはひどすぎる」と、苦笑と呆れがまざった先生の施術を受けるようになってどうも他の人より重症らしいことを知った。巻き肩の猫背な文章書き。

 

先週は毎日文章を書き続け、飽きるかと思っていたけど、意外とまだまだ書くことを楽しめていて我ながら良いなと思った。論文も投稿できた。これから査読だからどうなるかわからないけど、どうかいろんな人に読まれてほしいなと思う。この熱が冷めないうちにもう一本書いちゃいたい。

好きでやっていることは強いなと思う。先日知り合いのインド料理好きがホームパーティーでひたすらインド料理を作ってくれたときも、作ることが好きで好きで仕方ないから作っているのだと伝わってきてとても素敵だった。坂口恭平も言っているけれど、なりたいものややりたいことがある場合、その「未来の予定」には好きなことだけを入れるように細心の注意を払いましょう、と。私の場合だとインドについて考えたり情報収集すること、そしてインドのことや私の思想や哲学をアウトプットすること、特に文章を書くこと。執筆のほかにも講演や講義という形で誰かに届けること。それをスケジュールに織り込んでいき、理想の未来に重なるように行動する。そういう意味でも朝から文章を書き始めるようにしてよかったと思う。あ、あと美味しいものを食べることも私の喜びだな。

不思議なことに、少しずつ流れは整ってきている。文章を書くことでのお金はまだもらえていないけれど一つインド関係の新しい仕事が動き出す予定だ。情報解禁前なので詳しくは書けないけど、面白いことになりそうでワクワクしている。

 

あと、インドに行く私のために「2025年版 旅のしおり」を作成して持って行こうと思う。以前の友達との旅のときに作ったやつを自分用にアップデートするのだ。ガイドブックは重いし、そんなものを手にしていたらインドでは良い鴨にされるしね。ジャンムーやダラムサラには初めて行くからグルメスポットを押さえておきたいしルートも事前に調べておいて…そんな欲望を反映した、私の私による私のための旅のしおりを作るのだ。作ったらどこかにも公開するね。

とはいえスケジュールはがっつり作り込まない。偶然の出会いに任せてふらふらする。そのほうが旅に出る感じがして楽しいから。私を知らない人たちのなかに飛び込んで身を任せる。普段こういうやつだと思われていたりそういうキャラとして接して来られる、それも悪くはないけれど、たまに自分のことを誰も知らないところに行きたいと思う、と言っていた顔を思い出す。たしかにわかる感じもする。その言葉になぜか胸がきゅっとしたのを覚えている。私は近年になってありのままで生きることを選び始めたけれど、お酒を飲み始めた当初は芸人のように周囲を楽しませることを優先していた。それを好きでやっているなら本当の芸人だけど、気に入られたい、受け入れてほしい、という気持ちからそれをやっていたので、そんなキャラが長く続くわけもなかった。そのキャラをやめても一緒に飲み続けてくれる親友や友人だけが残って、今はとても心地がいい。そういう話もまた誰かに発信したくて文章をこうやって書いているんだよなあ。

インドについて、生きることについて、私から見えるこの世界について、考えて文章を書く。これで生きていけるようにこつこつ今を積み上げる。

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7月11日(金)覚醒までの30分

朝起きたら8:40だった。9時半に家を出てバイトに行かなくては遅刻である。急いでお弁当を作って身だしなみを整えてゴミ捨てなりムギさんのお世話なりをして家を出た、なので今朝は文章を書けなかった。

 

最近連続で投稿しているタイトルが日にちだけの文章は、目を覚ました直後に書いていて、書く時間はだいたい30分と決めている。それくらい時間が経つと脳みそが覚醒してくるからだ。そうすると自分の書いた文章を推敲したり、正誤を確かめたくなったりするし、文章を「構造的に」「物語的に」「意図的に」書こうとしてしまう。なんていうか、「これについて書こう」とか「こうやって展開させよう」みたいな意図が入ると、おもろくないのだ。時間かかるし。

もちろん読み手を意識してない文章のほうがつまらないかもしれないのだけど、まだあまり働いてない頭で思いついたことをぽんぽん書く「自動筆記」のような行為そのものが面白い。何かをやるのに面白さは大切だ。というわけで毎朝起き抜けにすぐ書いている。はてなブログのアプリはシンプルで文章が書きやすくて良いね。

 

前日までは「お、これ明日書こうかな」とか「今日の体験からの気づきをまとめたいな」とか思うのだけど、翌朝目が覚めたときにそれを思い出すことは少ない。全然違う子供時代の記憶が蘇ったり、家族のことを突然思い出したりする。書くことがなんにも思い浮かばなくて、ぽやんと真っ白い画面を眺めていたら、さっきまで見ていた夢のことを思い出したりもする。とにかく制限をかけずに頭に浮かんだことを自由に書くことをテーマに30分だだーっと文章を打ち込んでいる。

手書きでやってたモーニングページの公開版という感じか。ここ最近はずーっと論文を書いていることもあって、構造や展開を重視した文章を考えながら書くのは疲れてしまってるんだよね。実は今もこの記事はすごく気を遣って書いてるけれど、見た目的にはたぶんこれまでの朝の無題起き抜け日記と変わらない。「構造があるようで、ないような、岡本の書きそうな文章を再現する」ような感じで気を遣って書いているから、相当疲れる。朝イチにわーっと書く文章はそれを無意識的にできているので、楽しさもあるんだけど、楽なんですわ。コスパがいいというのか。今ここまでで900字くらいだけど、これを書くのに30分かかっている。朝イチの投稿は30分で1200〜1500字書けている。この違いだなと思う。

もちろん無制限にわーっと書くことはリスクも伴う作業なのだけど、公開しづらい記事はメンバー限定にすれば良いという処世術を覚えたので、とにかく自由に書いて良いとうわけです。明日も起きるのが楽しみじゃ。

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いまふと思い浮かんだことがあって、このタイミングなら素直に言葉にできそうな気がしたから振り返らずに書いてみる。

 

「本音を認めていいよ」と言ってくれる存在って、すごくありがたいなと思う。

社会的にこうしなくちゃいけない、立場というものがある、馬鹿だと思われる、無理だと言われる、誰かを傷つける、だから言えない、思っちゃいけない。そんな制限で自分や他人を縛ってがんじがらめになって、その隙間を縫うように呼吸して、でも「自分らしさ」みたいなものを完全に諦めきれない、捨てられない、なんとか制限と自分の失いたくないものの間でバランスとれないか、どれくらい自分を押し殺せるかどれくらいなら耐えられるか。そんな模索をしている人に、「でも、心の中は自由でいいんだよ。本音を認めていいんだよ」と声をかけられたら。

 

きっと制限も、愛の一形態なのだと思う。所有や独占も愛だし批判も攻撃も愛ゆえとして、私の好みの愛が「受容」であるだけだ。どんな感情も、どんな本音も「存在していいよ」という受容。

私がいっきに生きやすくなったのは、自分のなかに湧き上がるどんな感情もどんな欲望も全て否定しない、全て存在していい、と受容できたからで、そして、私は他人にもそういう形の愛情を注ぎたいと思っている。そういう「欲」がある。正しいか否かではなく、私の欲望だ。(往々にして「正しさ」にこだわると決定的なものを見落とす)

それを受け取り、そして、同じように私に注ぎ返してくれる存在が嬉しい。

 

なんでかわからないけど、いま急に書いておきたくなった。

7月10日(水)

今朝の夢も変な夢だった。ネパール人が出てきた。私の母の手下だと名乗る彼の妨害でインド行きの飛行機に乗り遅れた。それで私はネパール人ではなく母親にブチギレた。が、ブチギレながらも「こんな風に他人を責めても良いことはない、自分の責任でもあるんだから」と思っている私がいた。どうしようかな、と思考を巡らせているところで目が覚めた。変な夢。

 

ここ数日、右胸に謎の痛みがある。皮膚が痛い。火傷のようなジーンとかズーンみたいな痛みで、1週間以上経ってもまだ痛いのでそろそろ病院に行ったほうがいいのかなと思っているけれど、内科なのか、皮膚科なのか、婦人科なのか、それとも乳腺外科なのか、わからなくて困ってしまう。昨日調べていたらペインクリニックなる痛みへの対処を専門にした病院もあるそうな。ここは大都会東京なので各専門病院がすべて徒歩圏内にある、ゆえに迷う。うちの実家の方には「診療所」か「市立総合病院」の二つしか選択肢がなく、どちらもとりあえず行けばそこの先生が適当な薬を出してくれるか、あるいは適当な専門医に会わせてくれるので「とりあえず◯◯先生のとこ行こ」でなんとかなっていた。東京だと自分で判断して、症状的に一番適切ではないかと思う専門病院に行くことになっている…んだよね?あんまり病院が好きではなく、年に一度罹るか罹らないかというくらいなので私はあまり東京の病院システムに詳しくない。適切な病院を選ぶコンシェルジュみたいなサービスがあったりするんだろうか?もしくは、普通にとりあえず行く診療所みたいな病院がこっちにもあって、一回そこを通すべきなのか?わからない。

 

わからないこと、知らないことって、知りようがないよなあ。何かの知識が欠けていることを自覚できているときは探したり聞いたり考えたりでピースを埋めることができる。でも、そもそもその知識が欠けているかどうかさえ知らないとき、「この世にそれは存在しないものだ」と無意識に思い込んでいるとき、自分からその知識を埋めにいくことはできない。ただ偶然に「え、そんなものあったんですか?!」と出会うのを待つしかなくて、人によっては一生その知識に出会わず、存在さえ知らず、思いもつかずに人生を終える。そこに少しロマンを感じる。

そういえばそんなことを岸政彦が『断片的なものの社会学』で書いていた気がする。そこにある誰かのやりとりや生活を私たちが知らないまま終えることについて。

西荻窪の飲み屋であの本を読みながら、感極まってボロボロ泣いた日があった。飲み屋で本を読むといつもより頭に入る、というより、酒と共に体に染み込むような感じがする。言葉を超えて、非言語で、その文章の核のようなものが私に触れてくるような気がするのだ。もちろん酒も回る。べろべろになる。だから飲み屋で読む本の内容は覚えていられない。だけど不思議と文章が体に残っているような気がして、嬉しい気分で帰路に着ける。あの日、コの字形カウンターで泣きながら本を読む私を、向かいのおじちゃんは全く意に介さず、店員さんも放っておいてくれて、ああこの店は良い店だなあとしみじみ思いながら酒を飲んだ。

最近はあまり飲み屋で本を読まなくなったけれど、久しぶりに本を持って行ってみようかな。

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7月9日(水)

がっつり寝たはずなのになぜか眠気と共に起床。私は睡眠時にアプリを使って睡眠ログをとっており、それによると7時間12分寝たことになっている。なのに起きたて早々の今、まだまだ眠くて仕方がない。中途覚醒を3回くらいしているから熟睡感がないのかもしれない。

だいぶ昔、小学生くらいの頃に習った植物の開花条件を思い出した。開花に必要な条件のひとつが連続日照時間もしくは非日照時間(という単語があるのかわからないけど要するに日の当たっていない時間)だった。連続7時間の日照時間で開花するものの、ぶつ切りにした合計7時間の日照時間では開花しない植物があった、ような気がする。細かいことは全然覚えていない。ただなんとなく日照時間を刻んだグラフを覚えているだけだ。記憶というのは不思議だなあといつも思う。それを教えてくれた先生の顔などもう覚えていないのに。

 

私は中途覚醒しやすいタイプだ。全体的に眠りが浅いのかもしれない。とはいえ地震で揺れても気づかずに寝ているタイプなのだけど。ムギさんに起こされる時もあれば尿意で起きる時もあるしなんとなく目が覚めてしまうときもある。中医学の体質診断によると私は腎が弱っていて体の中に適切に水分を維持していられないタイプだそうだ。夜中にトイレで目が覚めてしまうのもそれが原因の一つらしい。

冬より夏のほうが睡眠にせよ他の色々にせよ体の不調が多い。診断してくれた漢方医によると、私は気滞陰虚痰湿が強く、とにかく暑さと湿度が大敵らしい。なるほど、それで毎年のように夏バテして普通の食事を食べる気力が失せ、そのかわりお菓子ばかり食べて太ってしまうのかあ、と納得した。

数年前に診断を受けた際はその先生のもとで中医学に基づいた食事指導を受け、夏バテを克服することができた。しかし食事は日々の心がけである。放っているうちに私の体質はまた悪化してきて、今年は6月早々から食欲のない日々が続いた。ポテチとドリトスばかり食べていた。美味しいんだよね、ドリトスのタコス味。でもそれじゃあいかんな、と先日思い立ち、今はまた薬膳の知識を取り入れた献立で体質改善を目指している。不思議とメンタルも整ってきた。体と精神はやっぱり繋がっているなあと実感する日々。

 

その体質改善のサポートを、今回は人ではなくてchatGPTにお願いしている。AIにダイエットサポートを頼む人が結構いるみたいで、すでにweb上に公開されているプロンプトがあったので、それを少し変えて中医学的な体質改善とダイエットのサポートを依頼した。

日々の献立を考えてchatGPTに打ち込むと、たとえば腎を補う食材をもう少し取り入れたほうがいいとか、気を流す食材がたくさん入っていて良いとかのコメントをくれる。私は疑り深い人間なので最初の頃は「チョコが気を補うって本当かなあ〜?」といちいち突っかかって自分でgoogleで調べ直すなどしていたけれど、だいたい合っているので最近はchatGPT先生におまかせにしている。

良いところはレスポンスが早くて自分で食材の効能を検索するより掛かる時間も手間も少ないことだけど、chatGPTにはメモリの限界があるので、1週間連続の献立のバランスを振り返ってレビューするのは苦手なようだ。急に食べてない食材の話をされたりする。

 

人のやれることはどんどん減っていくと言われるけれど、こうやって実際にchatGPTを使っていると、人のすごさにも気がつきやすくなる。chatGPTのもつ「メモリ」と人の「記憶」とは別物だと感じる。メモリには直線的な動きを感じるけれど、人の記憶は睡眠時間から小学生の頃の植物の話に突然飛ぶ。とても立体的で、ランダムながらも繋がりがあり、それなのに本人にも関連性が見出せないこともある。

思うに、直感的なひらめきやふとした違和感がこれから先はもっと大切にされる世の中がくるんじゃないかしら。予定調和のプログラムにはできない感覚的な動作や予感、本能的な欲求。人間も獣だったのだと思い知る何か。そういったものに光が当たる日がくるような気がしている。

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7月8日(火)

寒くて目が覚めた。自動オン設定していたクーラーが私の想定より1時間早く起動し、起きたい時間の1時間前に冷風に晒されることとなったため。もちろん私が計算を間違えてそう設定してしまったからそうなっている。昔から算数が苦手だ。繰り上がりを含む足し算や引き算を暗算するというのは要するに数字を短期記憶する力が必要になると思うのだが、数字を覚えることがからきし苦手でワンタイムパスコードにさえ四苦八苦している私に、24hを超える時刻計算は鬼門なのであった。

寒いと同居猫のムギさんも文句を言って走り回るので、それで起きたというのもある。私は畳に布団を敷いて寝ているので、ムギさんが元気に全力疾走する姿を横になって眺めながら、畳の削れる音に賃貸退居時の費用精算のことを思った。ここの大家さんはとても優しい人で、入居時の費用負担を少しでも軽くしてくれようとしたのかあるいは単に会計処理などが面倒なのかわからないけれど、とにかくペット可物件にしては珍しく敷金を1ヶ月分しか取らなかった。それはつまり退居時に敷金で賄いきれず修繕費を払う必要があるかもしれないということだ。ケチな私はうっかり柱を削ったりしないよう日々気をつけて生活しているのだけど、自然体で生きているムギさんにそんな人間の決めたお金のルールなど関係ない。すでに畳には何本もの爪痕が残っている。こないだ気づいたが、書斎の壁の一部にも爪研ぎの跡が見られた。ダンボール型爪研ぎよりも壁の研ぎ心地を好んだらしい。あーあ。

まあ、こちらとしてはムギさんがストレスの少ない環境で健康に楽しく生きていてくれたら良いので、私にできることは今日もばりばり稼ぐことである。

 

昨日は散歩がてら隣駅のカフェに出かけた。窓辺の席で梅のソーダを飲む。外には雑草と木々が渾然一体となったような緑が広がっていて、それがかつての私の実家周辺の景色を思わせた。今の実家は群馬と長野にまたがる山の中にあるが、それ以前、私が中学や高校に通っていた頃は埼玉の平地に家があった。広々とした田んぼと畑のなかに突然開拓された住宅地があり、家の目の前は雑木林だった。弟と私はその雑木林でよく秘密基地を作って遊んだ。とはいえ漫画に出てくるような家然とした秘密基地ではない、ところどころ地面に大きめの穴があいていたのでそこに腰を下ろしておやつを食べたりしただけなのだけど。近くに「アップル」という名の駄菓子屋もあって、そこで買ったおやつを二人でよく食べた。ヨーグルの当たりを引いたのも秘密基地での出来事だ。穴はそこまで深くない。目線を軽く上げるとすぐにその辺の雑草や木々が目に入った。瓜を切ったときのような青い匂いがする…

ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』を読みながら私はうつらうつらしていた。梅ソーダは飲み終わっている。帰路に着く。

そんな一日だった。


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7月7日(月)

日付を打って気づいたけれど今日は七夕か。

七夕の日に食べるご飯って何かあったっけ?夏至の日はタコとか6月30日は水無月とか、その日に食べるものが決まっているのは関西のイメージがある。私は兵庫で育ったとはいえ幼少期すぎて記憶があまりないのだけど、母親がそういう季節のイベントごとの食べ物に詳しい。関東で恵方巻きが流行るずっと前から、我が家では恵方を向いてぶっといのりまきを口に咥えていた。

 

昨日は一歩も外に出なかった。いや、ベランダを「外」と呼ぶなら、半歩くらいは外に出た。ベランダ菜園のミニトマトにハダニが発生していて、それが隣接するカレーリーフにも少し移っていて、やつらを殲滅すべく午前中を費やしたのだ。

カレーリーフは今のところ目に見える被害がほぼない超初期に気づけたので、葉水と薬の散布でなんとかなりそうだった。ミニトマトのほうは葉に糸が張るほどの被害になっていて、研究や仕事にかまけておざなりな水やりをしていた自分を悔やみつつ、できるかぎりのことをやる。お風呂場に連れて行ってシャワー責めである。シャワー後も目視で一枚一枚葉っぱの裏を見てティッシュでハダニを拭き取った。それでも落とし切ったか自信がない。今日と明日も必要ならシャワー責めしよう。なんとかしてあげたい。

 

そんなベランダ作業をしていたら、面白いくらいに汗がドバドバ出た。拭いても拭いても吹き出してくる。特に頭。ここ数ヶ月ほど美容院に行ってなくて髪がもふもふしているので、頭に熱がこもりやすくなっているのだと思う。

そんな暑さに心が折れ、二日連続で達成した一万歩ウォーキングを昨日は放棄した。

 

そういえば土曜日にサンダルで一万歩歩いたら、ベルトの当たる部分が擦れて皮が剥けてしまった。帰宅する直前に剥けたので無事に歩き切って家に到着できたけれど、シャワーや入浴など水が触れるとひりひり痛むので嫌になる。ウルトラウォーク系はマメなど足に傷ができたらもう終わりと言われるほどで、ワセリンを塗るなどしてとにかくみんな足のケアを大切にしている。今は大会前じゃないから良かったけど、いつでも気をつけないといけないなあと思った。

それにしても、愛用しているこのブランドのサンダルでかつては12キロくらい歩き通したこともあったから、今回は汗やサンダルの年季の入り方などいろんな要素があったんだろうけど、とにかく信頼を寄せていたサンダルで擦りむいてしまったことにショックを受けている。信頼なんて勝手なもんだなあ。

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