百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

個人ホームページのご案内

いろんな活動をさせていただくようになってきましたので、簡単なホームページなるものを作成しました。

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各種SNSやnoteなど読み物にもアクセスしやすくなりますので、こちらのブックマークがおすすめです。

よろしくお願い致します!
(しばらくこの記事は固定します)

12月8日(日) ロングスカートとシュウェップス

生活の心地よさって「これが好き」で空間を埋めて、その空間を愛しているから生まれる感覚なのかもしれないと思った。

私の家はめちゃくちゃ居心地がいい。自分自身がいつもそう思っているし、うちに遊びに来るいろんな友達にも言われるし、恋人も心地よさそうにしている。同居猫のムギさんもいつもごろんと床に落ちている。警戒も不安もいらない。ここは私がすみずみまで愛を注いでいる、居心地がいい空間なのだ。

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「これが好き」で私の人生を埋め尽くすことに対する全力の許可を、こないだようやく出せた気がしている。

私はロングスカートが好きだ。でもスカートばかり履いてるとバランスが悪いかなと思って、なぜか中庸を目指してパンツスタイルも取り入れたりしている。そのバランスを気にする人なんていないだろうし、誰に咎められたわけでもないのに。でもスカートばかり買うのって変かなと、私の脳みそが勝手に作り出した「社会」というものに対して勝手に遠慮していたのだ。

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12月7日(土) 間借り店主デー

こないだ水曜日は西荻窪の「ちゃちゃぶん」というバーを間借りして、岡本が一日店長を勤める「インドな夜」を開催させてもらいました。これで3回目。ありがたいことです。

 

驚いたのは、文学フリマでたまたま本を買ってくれたインド好きの方が西荻窪の近くに住んでいて、SNSで流したイベント告知を見て遊びに来てくれたこと。偶然が幾重にもかさなってびっくり&楽しい一日でした。改めて、来てくれたみなさまありがとうございました!!

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執筆、デザイン、入稿、宣伝、文フリ、事後の通販準備や御礼連絡、そして一日店長デー、と先々週あたりから今週までずっっっと走ってきた感覚があって、くたくたです。しかもこのタイミングでなぜか、ポイ活目的で始めたソシャゲ内の同盟の盟主になってしまい、チームメイトをまとめるのに力を尽くしたり色々してました。いやあ…なぜこの時期に…笑

 

ごはん作るのも本読むのも音楽聞くのも映画見るのも好きだけど、ゲームも漫画も大好きで、だらだら時間をかけてソシャゲや3DSのソフトやったり漫画読んだりしてる。

だから私はいわゆる「丁寧な暮らし」をしているわけじゃない。私がやってるのは「心地いい暮らし」で、自分がそのときやりたいと思ったことを思う存分できればそれでいいや、と思ってる。だからゲームに熱中して夜ごはん食べないときもあるし、3時くらいまでゲームやって寝落ちするとかもある。飽きたら急にやめるしね。ちょうどさっきポイントもらえる目標レベルまでいったから、引退しようかと思ってたとこだし。

 

そういう心地いい暮らしを、ずっとし続けてこられたわけじゃない。最近できるようになった、というか、何をしていても周りからみたら非常識そうな行為でも、自分が自分のこと否定しなければエフィカシーは下がらないということに気づいたから、そういう生活を選びやすくなった。

もちろんまだ自己否定するときはあるし、そういうときはエフィカシー下がって失敗スパイラルに突入したりもするんだけど。そういう私もいいのだ。自己否定する自分のことすらも抱擁したら無敵だよなあと思う。

 

そんな今日はソシャゲの同盟戦にそなえてソワソワしていて夕飯も適当。焼き鳥が食べたいものの、外に飲みに行って酔ったら同盟戦に参加できない…と謎の責任感を発動し、自分で焼き鳥風の味付けの鶏肉炒めを作りましたとさ。めでたし。

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12月2日(月)言葉を曲げないことが未来につながる

昨日の宣言のとおり、今日から有料記事をぽつぽつ書いていきます。タイトルと無料部分を見て課金して読むか決めていただけたら。もちろん全編無料の記事も書き続ける予定です。

なお、金額は自分のプライベートに深く関わっている内容かどうか、書くことに恐怖や不安などのハードルがあったかどうか、などで変えるつもりです。今回の記事は私にとって大きな転換点になりそうな出来事を書いているので、少し高めの設定ですが、普段は100円〜500円で読める記事になるかなと。記事有料化という小さくて大きな一歩ですが、応援していただけたらありがたいです。

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***

 

信じる力は私の美徳の一つだ。
私は言葉の力を信じているし、ただ同時に、言葉だけがすべてではないとも思っている。世の中には成人していても読み書きができなかったり、あるいは著しく苦手だったり、興味をもてない、好きじゃない人がたくさんいることを知っているから。本がすべてを救うとも思わないし、映画や音楽がすべてとも思わない。
私自身は本や音楽が心の栄養になっていると思うけれど、それは恵まれた環境にあるからだと理解している。もっと物質的なものこそが必要な人もたくさんいて、食費を削ってまで本を買うことが良いとか正しいとか思わない。たとえ本が好きだったとしても。

「人による」というのが究極の結論で、でもだからこそ人間社会にはいろんなものが生み出されひしめき合って存在しているのだから、あっけらかんとその事実を受け止めていたい。

 

だからいろんな人にいろんな考え方があることは重々理解しているうえで、やっぱり私は言葉の力を信じている。信じている限りは、私の観測する世界においてそれは真実だ。死ぬまで狐に化かされていれば葉っぱが貨幣として使われ続けるように。

そういう信念の持ち主なので、私は言葉に対して真摯でいたい。書くことに嘘や背伸びや誇張を入れたくないし、入れないように、心に問いかけながら書くように気を付けてきたつもりだ。ときどきオーバーな表現をしてしまったり、過去の未熟な私の文章に恥ずかしくなったり、それを手直ししたい欲求に駆られて修正したりもする。

ただ、ベースにあるのは「素直な心の文章であれ」ということで、心に背くことだけは書かないぞ、と本当に気を付けてきた。それは未来においてもそうであると思う。

 

 

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12月1日(日) 文フリ参加、作ること

先日入稿して完成したZINEの新刊を携えて、文学フリマ東京39に出展してきました。
ブースに足を運んでくださった皆様、本を手に取ってくださった皆様、そして購入してくださった皆々様、本当にありがとうございました。

今日から12月ということで、良いスタートダッシュをきれたような気がする。でも考えてみれば今日は昨日の続きで明日のための前日で、つまりいつだってスタートはして良いし、さらに言えば意識していなくてもいつのまにかスタートしていることだってある。地下水脈が目に見えずとも流れ続けていつか吹き出すように。
たいていの場合、私たちは「いつ」が始まりだったのか、わからない。振り返ってみてそれらしいタイミングを「スタート」だと認定しただけだ。だから私もインド好きになったきっかけは沢木耕太郎の『深夜特急』だと何度も言っているけれど、それは私がインド好きになったのだと自覚したタイミングでしかない。もしかしたら生まれたその瞬間から私はインドが好きだった可能性もある。その「好き」という想いにずっと気が付かなかっただけで。

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今年になってから急にZINEを作り始め、文筆家になりたいのだと周囲に公言するようになった。私がホームとする西荻窪という街にはアーティストやクリエイターやミュージシャンが沢山いて、彼らからたっぷりと刺激を受けたことが作品をつくるきっかけの一つになっている。
私はその人たちのキラキラに憧れて、でも自分はそういう存在にはなれないのだと勝手に思い込んだまま指をくわえながら地団太踏んで、イラストレーターには嫉妬しミュージシャンには恋焦がれ板金彫刻家には遠い世界の人だと壁をつくり…。ZINEを作るようになって一番良かったことは、自分自身をそういうこんがらかった思考回路と感情から解放してあげられたことだった。

でも別のきっかけは、去年友達とインド旅行に行くことになったとき、彼女たちのために「旅のしおり」を作ったことだった。インドが好きで好きでたまらないから、あらゆるインドを見てほしくて、少しでもインドを楽しんでほしくて、純粋にインド愛を詰め込んだ。私は好きな物事に関する文章ならいくら書いても苦にならないらしい、ということを発見したのもこのときだった。
それを見た親友が「これは出版して売ったほうがいい」と言ってくれたことをきっかけに、私のZINE作成の道はスタートしているように思える。

でも、さらにそれ以前のきっかけは、やっぱり恋人に出会ったことだったとも思う。ステージの上で活動してキラキラしている彼に焦がれた。たとえばイベンターをやったりフードを作ったりと裏方のように彼を支えることも考えたけれど、そうではなく、私も表現活動をしてお互いのジャンルで第一線に立ちたいと願いがうまれた。(私の感謝はいつも最終的に家族か親友か恋人に収束していくなあ…)

 

そういういくつもの「きっかけ」が折りかさなって結びついて、今のこのZINEは存在している。たまたまレイアウトデザインを本業にしていた飲み屋のマスターがいたこと、たまたま元編集者で本を売ることに快く協力してくれる人と出会ったこと、委託販売を快く引き受けてくれる飲み屋の店主たちがいること、親友が漫画家であること、そして恋人が尊敬と憧れを刺激するアーティストであること、などなどなど。

 

出会ってくれた全ての人たちに、心から感謝します。
そして言葉を、表現を、形にすることができた自分自身を、抱きしめてあげたい。

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Word Chain-dia vol.2、まもなく通販スタートしますので、何卒よろしくお願いします。

 

 

それから、ちょっと試験的に有料記事というものを始めてみようと思ってます。

書くことを稼業とするために、自分の文章でお金を稼ぐ感覚を日ごろから感じられるようにしたいという挑戦と、自分の心の揺れ動きや日々の出来事を公開する以上は自分がすり減ることのないように、大勢の人の目を意識するよりは私に関心を寄せてくれている人だけ受け取れるようにしたいと考えました。

私はどうしても人目を意識しすぎて平然を保つのが難しい性分だということがもういい加減よくわかったので。今後も無料部分や無料記事を書くし、有料部分や記事も書くよ、という感じでぼちぼちやっていこうかと。

11月23日(土) 人生の塩

フランソワーズ・エリチエという社会人類学者の書いた『人生の塩』という本がある。私たちの人生を味わい深いものにしているのは日常の些細な出来事、それによる心の揺れ動きである、というもので、簡単な説明やあとがきでの補足的な解説以外はほぼ全編にわたってエリチエ自身の「人生の塩」にあたる思い出や単語が列挙されている。

数年前になんとなく買って本棚に眠っていたのだけど、今の私に必要な気がしてパラパラとめくってみた。買った時には意味がわからなかった説明が、今ではよくわかる。楽しかったことや嬉しかったことだけでなく、つらかったことや嫌なことまで含めて思い出せる感覚的な喜び、それが私たちの人生を豊かにしているのだという彼女の主張に、一言一句頷く。

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昨日、久々に自分に立ち返ったような感覚になった。思い出したというべきか。

何者かであろうと力まなくても、頑張らなくても、そのまま私は「私」として存在している。ただそれで良いのだということ。特別であろうとか唯一無二であろうとか、そんなふうに意気込まなくても最初から、私という個体として生を受けて父と母の間にこぼれ落ちたあの瞬間から私はずっと特別で唯一の存在としてこの地球に存在しているということ。

愛されているのは、生きている限り、当たり前の感覚であるということ。何もしなくても、たとえ私に学がなくても、稼ぐことができなくても、言葉を発することができなくても、体を動かすことができなくても、愛されていて良いし存在して良いこと。

 

同じカウンセリングを受けてきた仲間がそのことに気づかせてくれた。自分で自分の存在を全肯定して、全受容する感覚。

「生きている」ということはそれだけで偉業なのだ、とエリチエも書いている。

 

昔、誰かに言われた。「楽しさではなく、歓びがあるほうを選びなさい」と。その言葉を私はしっかり胸に刻み、今まで生きてきたつもりだったけど、まだわかりきってなかったんだと思う。生きる歓びとは、自分が自分であるまま心を自由に震わせて生きることなのかもしれない。悲しみも怒りも生きる歓びなのだ。

 

今日からしばらく、私の「人生の塩」をノートに書き出してみることにした。好きなこと嫌いなこと思い出せること全て。

とりあえず今日は試しにここに書いてみます。ざっと思い出せることを並べたから昨日の話ばかりだけど、いくらでも過去に遡って自由に書いていいそうで。もし自分もやってみようかなと思う方がいれば、よければご参考に。

 

外語祭に行って、きらきらした光を浴びながらカイピリーニャを飲んだこと、落ち葉の上にピクニックシートを敷いてふかふかの感覚を楽しんだこと、ネイルシールが綺麗に貼れた、日陰が寒かった、野川公園の景色が良かった、初めて歩く道にわくわくした、足の指の間にマメができて痛かった、バスが蒸し暑かった、ウォーキング大会を断念するか迷った、マスターのパソコンの調子が心配、お風呂に入れた入浴剤の香りがさわやかで気持ちいい、先月末に買った菊がまだ美しく咲いている、朝に入れた保温ポットのお湯が寝る前までうっすらあたたかく驚いた、飲みやすい温度で心地良かった、、

 

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11月18日(月) 五段階欲求とパートナーシップ

(※性被害に関する言及があるので嫌な予感のする方は読むのを避けてください)

 

人のもつ欲求について、マズローという学者が提唱した「五段階欲求」というものがある。

いわく人は五段階の欲求をもっており、下から順に生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求、とピラミッド型に積み上がっている、という考え方である。

これを自分自身で満たせるようになると他人に依存したり他人の顔色を見て生きることをやめられるので生きやすくなりますよ、というのが私の師事しているカウンセラーさんの教えで、そのおかげもあってここ最近の私は一人でいてもじゅうぶん幸せだなあと感じている。

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そして「一人でも幸せ」の状態と「一人だからこそ幸せ」の状態は別物で、前者にはパートナーがいても幸せ(もしかしたらもっと幸せ)だが、後者は他人と暮らすことを拒絶しているし思い込み=思考に制限が働いている。マインドフルネスはいかに思考の制限から自由になるかという生き方なので、ちょっと肩に力が入りすぎているのだ。まあ個人の好みなんですけども。

 

つまり、マズローの五段階欲求は自分一人でも満たしていいし、パートナーと一緒に満たしてもいい。のだけど、その視点が私からすっぽ抜けていた。さっきの例で言うと後者の視点に無意識になりかけていた。

 

五段階欲求をパートナーと共に満たす、というか満たしたい、ということを私はずっと認めてこなかったから苦しかったんだな。

たとえば生理的欲求は、性欲を満たすこと。一人でもできるがパートナーとするときの喜びや快楽はより深いものだと個人的に思う。

安全欲求は、自衛して自分の身を守れることはもちろん大切だけど、いざというとき守ってくれる、あるいは頼れる人がいるという安心感。

社会的欲求は、飲み屋に行って人との繋がりを感じることでも満たされるし、パートナーと晩ご飯を食べながら感情や感覚を分かち合うことでも満たされる。

承認欲求は、自分という人間の個性を周りに示して認識されること、そしてパートナーにとって「かけがえのない存在」と認識される、ひいては周囲にも「あの二人はパートナーだ」と認識されること。

その上で自己実現を果たす。つまり自分一人で成し遂げたい夢と同時に、パートナーと共に成し遂げたい夢を持っていていい。

 

五段階欲求というだけあって、一段下の欲求を十分に満たしきっていないと、上の欲求を叶えることは難しいという。身の安全が確保されていないのに自己実現したいと願ってもその夢に邁進できないように、ベースとなる欲求を順々に満たしていくことが良いとされる。

 

私の場合、まず生理的欲求の部分に大きなぐらつきがあった。性欲が自分にあることをなかなか認めようとしなかった。

これは以前ブログに書いたかもしれないが、高校生の時と社会人になってからの計3回も性被害にあっていることが影響している、と心理カウンセリングを受けて判明した。自分に性欲があることを否定しないと、性被害に遭ったのは私のせいだと自分を責めてしまうから。本当は性欲があることと性被害を受けたことにはなんの関係もないのに。

 

ちなみに私はトラウマ記憶に関する研究をしていて、精神医学の宮地尚子先生の著書で知ったのだけど、性に関する話題や異性からの性的興味を避けようとするのにむしろ近づく行動を無意識に選んでしまう、というのが性に関するトラウマをもつ人の特徴らしい。私が3回も被害にあっているのは1回目の被害のときに十分なケアを受けなかったからだろう。だからトラウマの再現行為を無意識にしていたのだ。

 

そうして性欲を否定していたので、私は恋人から体を求められることがつらかった。セフレ扱いするなと怒ったり喧嘩したり。性欲=私を傷つけるもの、と潜在意識下で認識していた(トラウマは潜在意識下に存在する)ので、恋人が私に性欲を向けることは私にとって暴力と同じだったのだ。

いまはカウンセラーさんや同じカウンセリンググループのメンバーとの相互ケア、そして恋人と長年かけて築いた信頼関係もあって、性欲をもっているのは当たり前のことだと理解できたし、恋人との性行為は最もわかりやすい愛情表現なのだと認識もできた。

「なに当たり前のことを言ってるんだ」と思われるかもしれないけど、みんながそうやって当たり前に認識してきたことを腑に落とすまでに事実4年かかったのだ。長い戦いだった。

ここまで諦めずに付き合ってくれた恋人には本当に感謝してる。この人がいたから私は性行為に対する思い込みを克服できたし、自分に性欲があることを受け入れることができたと思う。

 

こうして最下段がしっかり満たされた(受け入れられた)おかげで、上の段階にある安全欲求も受け入れることができた。彼を頼りたいとか守ってほしいという欲求があることを認めて、受け入れる。そうしたら、実はすでに守られていたことに気付かされる出来事が起きて、彼への感謝がより深いものになった。

 

そのおかげで社会的欲求も満たされつつある。パートナーに求めるのは愛情を感じ合う関係だ。その愛情の感じ方に制限がなくなった。

以前は「彼は私をセフレ扱いしてる!愛してるならもっと時間つくってデートしてくれるはず!」みたいな認識を無意識に選んでいたからケンカをしていたけど、今は自分や相手の性欲を受け入れ、性行為を愛情だと認識できたことで愛情を受け取る間口が広がった。そうしたら、彼に深く愛されていたことに気づけた。

恋人は相変わらず忙しい人だけど、短い時間でも彼からの愛情をしっかり感じることができるのは、やはりベース部分の欲求をこつこつ満たしてきたからだと思う。

 

そしていま、承認欲求という壁にぶつかっている。承認欲求というのは悪者にされやすいが、社会的な生き物として他者と関わり合って生きていく以上、人間に必要なもの、というか備わっているものなのだ。

私はこれも否定してきた。だけど今朝ついに降参して、自分のなかにパートナーシップに関する承認欲求があることを認めた。私は彼に「かけがえのない存在」だと認識されたいし、周囲にもそれをわかってもらいたい。

今までは自分で理解していればいいやと思っていたけど、それは「承認欲求はダサいよ、悪いことだよ」と自分自身に制限をかけてお利口に振る舞うことを求めていただけ。もちろん他者の評価や他者の目を気にして認めてもらうための行動をとる必要はないし、そんなことをするつもりはない。だけど、私と彼のパートナーシップを認識されたいと願うことは人間として至って普通で普遍な欲求なのだと、やっと受け入れることができた。

 

とはいえ、このバランスは難しい。人に積極的に示すことでマウントをとりたいとかは明らかに承認欲求の暴走だけど、彼のそばに別の女性を寄せ付けたくないみたいな嫉妬の感情をどう扱って良いのかまだわかっていない。今後の向き合いどころだなと思う。

 

その上で自己実現という「パートナーと共に成し遂げたいこと」が出てくるのだろう。

今の私は子供が欲しいかどうかわからないけど、もしかしたら「かけがえのない存在と認められたい=結婚したい」という欲求を受け入れられた先に、彼と子育てしたいという願望が出てくるのかもしれないし、一緒に作品を作りたいみたいな今の私で思い浮かぶ欲求をまっすぐ望めるのかもしれない。

 

私と恋人には似ているところも多々あって、彼は承認欲求について否定的で、その欲を良くないものだと思っている節がある。それは他者の目や評価を意識しすぎること、つまり承認欲求に苦しめられているのかもしれないな、とふと思った。本当のところはわからないけれど。

 

なんのためにパートナーとしてこの人に出会ったのだろうと考えるとき、自分一人では乗り越えられないトラウマ的な出来事や、それによる欲望の否定や制限を乗り越えて成長するためかもしれない、と思う。他人は自分の鏡だとよく聞くけれど、恋人や夫のような存在はまさにそうだ。

私が承認欲求を乗り越えられたら、彼にも何かを渡せるだろうか。そんなことを考えている。