百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々

3月7日 誕生日と無価値観

先月末に、毎年恒例となっている誕生日を迎えた。
今年で35回目のイベントであった。

 

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その誕生日で「ただ生まれただけ、ただ喜んでいるだけで、周りの人がこんなに嬉しそうにしてくれる」を思いっきり体感して、少しずつ自分の中の「無価値観」を解消できてきている気がする。

 

私は何をしていても、してなくても、私なんだと思った。

たとえ博士論文を出せず研究や執筆を仕事にできなくて、ただただ息を吸ってご飯食べて寝るだけの生活になっても、私は私のままで、そのままで愛されてる。生きているかぎり生きていて良い。私はその生活のなかでもご飯のおいしさ、空の美しさ、光の複雑さ、生きていることすべてに心をときめかせるだろう。だって私だから。

 

親に愛されるために、友達から好かれるために、空気をよく読む人間として育ってきた。何気に鋭い感受性のために言われなくても察することのほうが多かった。

無意識に「周りに気を遣えないと愛されない」と思い込んでいた。
でも本当はそんなことない。

 

誰も無価値じゃないとか、私が私、あなたがあなたであるだけでもう価値があるとか、そういう言葉も陳腐で少し違う。本当は「価値」や「無価値」という言葉すらいらないんだよな。尺度が生まれてしまうから。

比較できる特別な何かをわざわざ身に着けていなくても私(あなた)は私(あなた)であるだけで良い。ただ息を吸っているだけで良い。布団から起き上がれなくたって良い。

そういうの全て自分に許した上で、「私は自分の感じたものを文章で書くのが好き」「文章を通して他の人と共有できたら嬉しい」があって、私が「やりたい」から「やる」んだと思う。

 

まあ、まだ自分から天秤に乗りに行ってるときがあるのもわかってる。

それを客観視できるようになったことが成長だと思うから、今はそれでまだいいよ、少しずつ天秤から降りている時間を増やせるようになろうねって自分に声掛け。

 

こんなこと誕生日に感じたのは初めてで、だてに35回も祝われてないなと思った。

場数って大事ね。