百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々

2024年2月15日 忘れることを許すこと

前回記事で何を書いていたかも忘れた。

読み返してみたらここを研究日誌にするとのこと。ほーん。去年の9月末の私はそんなふうに考えていたのね。

 

そんなことは忘れていたので、ここは相変わらず日々のメモ書きとして使っていく。

 

...

 

家の近くの空き地が売れたようだ。雑草避けのようなシートが張られていた空き地にはフェンスが立ち、工事予定の看板が下がっていた。

私はここの空き地が好きでも嫌いでもなかった。建物が建つことに賛成も反対もない。

ただ、雨の日にこの空き地に張られたシートに雨粒が当たり、反射して聞こえてくる音が、川のせせらぎのようだったことは覚えている。その音をよく聴こうと雨の中わざわざ立ち止まったこともある。雨の日のほんのささやかな楽しみだった。

 

もともと、今いる場所から別の場所に繋げてくれる見えない扉のような場所が好きなのだ。この空き地に限らず、いろんな場所に私は透明なワープポイントをもっている。今すぐには思い出せないんだけど。

 

大事というには軽すぎて、でも何も思い入れがないわけじゃない、すぐには思い出せない場所。この空き地もいずれそうなる。何かきっかけがあれば思い出せるかもしれない、たとえば雨の日にここの新しく建った家が視界に入った時、もしくは似たような空き地を見つけた時。もしかしたらもう思い出せないかもしれない。どこかにワープポイントがあったことだけは覚えていて、いや、それすら忘れるかもしれない。

 

つい数年前まで、私は忘れていくことを許せなかった。忘れていく自分を、他人を、責めた。一瞬でも好きだと思った何かをかつてと同じように愛せなくなる心の変わり身の早さ、頭の軽率さ。失われていくことのやるせなさ、悲しみ。

根底には恐怖と悲しみがあり、それに蓋をして怒った。自分もいつか誰かに忘れられてしまう。そのことへの恐怖だったかもしれない。

 

最近ようやく、忘れることを心底許せるようになった。仕方がない。それはネガティブな諦めではなく、それが「生きていく」ということだから仕方がないのだと認められた。諦めより「降参」に近い。まいった、まいった。

 

生きることは変化し続けることで、死ぬことは不変に留まること。言葉としては理解していたこの真理をやっと腑に落とすことができたのだと思う。

 

思い出せたらいいな、と思う。ここで川のせせらぎを聞いたこと、雨の日が少し楽しかったこと。でも思い出せなくてもいいんだよ。いずれ私は別の場所を見つけるのだから。

 

それでもこうやって文字にしておこうと思ったのは、ちょっとした忘却への抵抗なのかもしれなくて、そういう自分が少しおかしくて愛しい。