百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々

7月24日 何の変哲もない夏の日

ぼんやりしているうちに7月が終わろうとしている。異常気象だ温暖化だと毎年いろんなことを思うけど、一日の一瞬を切り取って見ると、いつもと同じような夏のひとときを感じる。

そんな7月だった。

 

中旬の三連休、天気のぐずついていた頃に待ちきれなくて梅を干した。悲しいかな晴れたのは一日だけで、あとは曇天や突然の雨天。梅はあまり綺麗な色に変化しなかった。最近の快晴続きを見て少し後悔している。

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そんな小さな後悔はしつつも、すかっとした青空は気持ちがいいので大好きだ。ビルの屋上で芋焼酎を飲みながらさつま揚げを炙ってぼんやりする夏の日だった。

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前回の記事(7月6日 さらさらの星 - 百年の一日)での「悲しい出来事」からの2日後、また楽しく過ごしている。

なんなのだ、と思うけど、実はこないだの記事を書いた時も心のどこかで「多分どうにかなる」と感じていた。慢心や甘えではなくてもっと確信に近い感覚で。

 

あまり落ち込みたくはないけど、こうやって良い方向に変わるきっかけになるなら、悪いことばかりじゃないよねとは思う。

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7月6日 さらさらの星

七夕について考えるとき、「きらきら星」と「笹の葉さらさら」がよく頭の中でごっちゃになる。星がさらりさらりと鳴っているような気がしてくる。

星は確かに地球から見る分には細やかで、輝く砂粒のように見えて、こすりあわせたら「さらさら…」と鳴りそうな気もする。

 

だけどあいつらは燃えているのだ。宇宙空間で、真っ暗な黒い闇の中でごうごうと燃えている。地球から見えるくらい激しく燃えているんだから、ほんと、ごうごう鳴ってると思う。

そう考えるといつも勇気が湧く。

星は七夕の夜もごうごうと燃えている。

 

 

星に勇気をもらいながらここ最近の出来事を振り返る。とても悲しい出来事があった。

まだ実感の湧かない身体で空を見て、暗闇で燃える石の塊を想像して、どちらも途方もなく現実離れしているように思えて、現実に戻るべく豚の肩ロースを煮た。豚肩ロースがどこのスーパーでも安かったから。

 

かつて私は料理が下手だった。今も特別に上手とは思わないけど、自分の食べたいものを作れるようになったことが嬉しい。

私は要領が良くない。ひたすらに場数を踏むこと(しかも人より多く場数を踏むこと)でしか成長できない。

 

でもそれで良いんだ。

 

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6月30日 一年の半分の喜びと悲しみ

夏越の祓え(なごしのはらえ)という行事を知ったのはたしか去年だった。一昨年だったかも。とにかくコロナ禍に突入してからだった。

一年が無事に半分過ぎたことを喜び、残り半年が健やかな日々であることを願い、神社の茅の輪をくぐって「水無月」という菓子を食べる、そういうイベントだと解釈している。

 

私は美味しいとこどりの怠惰な人間なので、この猛暑に神社へ出向いて茅の輪をくぐる元気はないくせにウキウキと和菓子屋へ行く元気はあった。そういうわけで今年、生まれて初めて水無月を食べた。ういろうもあずきも食べたことがあるので味の想像はついたし、実際に食べてみたら、まあそうだろうなという味だった。

 

「こんなの初めて!」という味も「予想できていた」という味も、どちらも好きだ。

予想がつくというのは私がこれまでいろんなものを食べてきてそれを舌が覚えている、脳内で再現できるということで、なんというか、私の生きてきた時間というと大袈裟だけど、でも積み上がっている時間を感じる。

予想していなかった味に出会ってそれを味わって楽しむのも大好きだけど、知っている味や予想できる味を「やっぱりそうだよね」と感じながら味わうのも良いもんだよね、なんて思うわけです。

 

ところで一年の半分が終わった。喜びと悲しみがとんとんな半年だった。去年の6月の事件から1年が経ち、私はだいぶ変わったと思う。変わったというより本来の自分にだいぶ近づいた。

私の運勢は多分9月ごろから年度末にかけてバリぶち上がっていく、と感じているので、来月再来月あたりはまだ今のとんとんな感じが続く気がしている。

来年あたりはスターとったマリオモードじゃないかと予想している。そうなるように今を生きていく。

 

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6月22日 うたた寝の夢

夢の話。

一階部分がシェアスペース、そこから梯子をのぼった二階にあるのが自分の家という集合住宅に住んでいる。私は別に家を持っているのでそこは仕事場所として使っているのだけど、雨が降ったので泊まろうかなと思いながらテレビを見てご飯を食べていた。

台所横にある玄関のドアががたがた騒がしくなったけど鍵を閉めてあるので問題ないやと無視していたら、うわーそうかーなどという声が聞こえて、その声が恋人の声だったのでドアを開けた。

彼は入ってくるなり台所の流しの下の扉をあけて「これこれ」と緑色のまな板や白いプラスチックのザルをとりだす。その流しの下には彼の調理器具がたくさん入っていた。

扉を開けたとき香りがふわりとして、彼は「懐かしい、じいちゃん家もこんな匂いだった、きび団子の匂いだ」と言い残して去って行った。

食べかけのご飯を食べに部屋に戻るとシェアハウスの住民が何人かくつろいでいた。

 

そんな夢を見た。

6月2日 季節に追われる、地下水脈の愛

食べたものを記録するためにインスタのアカウントを作った、けど4日目の昨日さっそく投稿を忘れた。綺麗に三日坊主だ。そんな6月のスタート。

 

梅仕事の季節が到来したけど、まだらっきょうも漬けてない。慌てて昨日らっきょうを買ってきたけど、今日は帰宅が遅くなる予定だし取り組めるかどうか…

時間に追われている感覚があって慌ただしい日々だけど、食材や家の中のことで季節を感じられるのはとても嬉しい。苦労や手間が愛おしい。

 

夏に向かう良い季節。カレーリーフちゃんもわさわさしてきている。

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4月に受けたアンガーマネジメントプログラムのおかげで、いま自分が何を望んでいるか、何を感じているか、だいたいわかるようになってきた。そうすると段々と周りの人が何を感じていそうか、何を望んでいそうか、ほんのりとわかるような気がしてきた今日この頃。

先日までは周囲の人のこと、好きな人のことを考える余裕がなかったけれど、改めて、私はみんなを幸せにしたいなと強く思った。

けど、いきなり周りを幸せにできるすごい人になんてなれない。自分一人を幸せにすることでまだいっぱいいっぱいの私が。


だから必要な経験を積んで必要な知識を身につけて、必要なタイミングで必要なことができるように自分を成長させ続けることが、きっと「自分だけじゃなくて周りの人も幸せにできる人間」になる一番の近道なんだろうな。

 

蓄えてきたものはやがて噴出して大きな変化を起こすかもしれないけど、それまでは地下水脈のように目に見えず流れ続けるんだろう。

 

脈々と流れる愛を心に感じる。

カサヴェテスの映画「ラブ・ストリームス」で、愛は流れ続けるものだと言われていた。きっと本当なんだろう。

 

5月の終わり

最近は穏やかで健やかな日々が続いている。

週末(に限らないけど)は朝まで友達とお酒を飲み、好きな人に会い、家でも外でも美味しいものを食べ、猫を愛し、花に癒され、好きな音楽を聴いて心躍らせている日々です。

これを私は「穏やかで健やか」と感じているけど、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 

5月に入ってから博士論文をちまちまと書いている。去年ほとんど書かなかったので先月から今月にかけてで去年書いた文字数を抜いた。本当に去年の自分は腑抜けの腑抜け。でもきっと必要な期間だったのだと割り切っている。

 

それから仕事もなんでか知らないが増えていて、5月もバリバリ働いた。

今年度から体制が変わると予告されていたときは規模の縮小と聞いていたので、きっと仕事がどんどん減ってひもじくなっていくんだと落ち込んでいたのだけど、今のところなぜか去年より月10万円近く稼ぎが増えた。

とはいえ、月によって受注量にばらつきのある個人事業主なので、年平均にするとどうなるのかはまだ予測できないけどね。

 

恐ろしいのは6月よな。

毎年恒例の低気圧によって私のメンタルがどうなるか、今からちょっと恐ろしい。今月のように穏やかに健やかに過ごしたいものです。

 

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5月26日 アンガーマネジメント

だいぶ間があいていた。

紙ベースの日記はほぼ毎日書いているので「まだ書き足らんぞ」と思ったときにブログの存在を思い出して書く、というスタイルでやっていたら4月〜5月はだいぶ書くことに満足いっていたらしい。

 

満足というか、やるべきだと思って半分くらい義務感で取り組んでいたのだけど、4月から5月中旬まで思考と感情の深掘りのために日記の他にメンタルケアのノートを書いていた。

これはアンガーマネジメントの一環として指導を受けたもので、日々の感情の揺れ動きをメモして、なぜそう感じたのか、客観的事実は何か、自分はそれにどのような意味づけをした(結果として感情が動いた)のか、本当は何を望んでいた(いる)のか、を細かく分析するノートである。

 

先日の日記に書いたとおり、4月にある人と大きな喧嘩をした。それまでもたびたび諍いはあったけど、今回はもうこの人との縁は終わったなとすら思った。

そのとき、その人から「いつか憎む気がする」と言われた。それがずっと心に引っかかっていた。人を憎むのは嫌だな、と思う。

 

その人の直感は野生動物なのかと思うほど鋭い。そんな人が私はいつか彼を憎むと言うのだから、このままいったら憎んでしまうんだなと思った。なので憎まないようになろうと決めた。

 

実は、私は自分のことをそこまで怒りっぽいとは思っていなかったのだけど、アンガーマネジメントのカウンセリングを受けると、現象を受け取ったときに怒りが出やすいタイプだと判明した。

怒りというのは「二次感情(第二感情)」と呼ばれるもので、そのベースにある本当の感情は「思考が停止するほどの強い恐怖や強い悲しさ」らしい。

脳というのは人間が生きていくために必要なあらゆる指示を出す器官である。心が受ける強いショックで死なないように、脳はその刺激を別の感情として発露することで心の痛みを軽減しようとする。

それが人によっては「怒り」として現れるのだという。

 

なので、怒りっぽいのを治したいなら、怒りの直前にかすかに感じる一瞬の感情を掴む必要がある。

とはいえ慣れていないとそれは難しいので、まずは普段から自分が何を見てどう感じるのかを細かく気づくよう習慣づける。怒りだけでなく、嬉しい楽しい悲しい寂しいなど感情を全部メモをする。その感情の引き金となった出来事もメモする。後にその出来事の「客観的事実」を洗い出す。

 

そうすると徐々に怒りのベースにある感情に気づけるようになる。この段階でもうほとんど怒らなくなっている。

巷でよく聞く「怒りを感じたら6秒間別のことを考える」というのも有効らしいが、感情を客観的に見つめる癖がついてないとただの「怒りのやり過ごし」に終わってしまい、結局は怒りを繰り返すことになる、と言われた。

一方でこの「感情の動きに敏感になる」方法だと、時間はかかるし慣れるまでつらいが、怒る前の感情の段階で昇華してあげることができる。つまり、そもそも怒らなくなる。

 

さらに、怒りのベースにある「悲しい」や「不安」も解消する方法がある。というか「悲しい」「不安」をそのまま感じていると人によっては鬱病になるので、原則は悲しさなどの解消もセットでやったほうがいいらしい。(死なないために怒りの形で発露させていたのだから、怒ることができなくなったら心の痛みが増えて病む)

 

だいたいの悲しさや不安は過去の経験や思い込みによって回路が出来上がっているらしいので、解消したい感情について、過去に何があったのか、現在とどう関係あるのか、それはただの思い込みではないか、本当はどうしたいのか、その実行は無理なのか、あるいは無理だと思っているだけなのか、などを問いかけながらノートを書く。

私は今この段階にいる。

 

慣れてきたおかげで怒りのときのノートよりも手早く書けるようになってきたけど、それでも「なーんで自分が何を本当に望んでいるのか理解するのにこんなに時間がかかるんじゃ」とは思う。

自分のことを深く知るというのは、難しい。でも嫌じゃない。きっと未来の私に必要なことなんだと思う。

 

そんなわけで最近はずっと自分に向き合っている。

 

その人とはひとまず仲直りしたけど、いつかはこのきっかけをくれた彼に心の底からの感謝をちゃんと伝えたい。

それを伝えるためにも、自分の感情や望みをもっと瞬発的にクリアに捉えられるように精進ですな。

 

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