火曜日、仕事の後に久々再開のバーへ飲みに行った。18時に到着するとお客さんはお会計待ちの人が一人だけで、その後も20時の閉店まで私以外誰もおらず。
一人でゆったりと飲めるのはありがたいけど、経営が心配になる。お酒を出せるようになってハイ良かったねでは済まない厳しい現実があちこちに。
帰りに元「やをら」の前を通ったら改修工事が着々と進んでいた。新店舗はいつオープンなのだろう。
水曜日、仕事から帰宅したと同時に昔インドで知り合った人から電話がかかってきた。
途中から明らかに電話の声が酔っぱらいはじめ、なかなか話が途切れず、電話を切った時には1時間半も経っていた。
iPhoneが火傷しそうに熱くなっていた。電話として大丈夫なのかこれは。
木曜日、在宅でヒンディー語の講座。
夜は映画を観た。
去年、全国のミニシアターが休業要請を受けて厳しい状態にあったときにクラウドファンディングしたのだ。そのリターンとしてミニシアター系の作品を何本か観られることになっている。
この日に観たのは「わたしたちに許された特別な時間の終わり」だった。ひりひりして突き刺さる映画。
死の安定性と生の不安定性について考えた。詳しくはTweet参照。
「わたしたちに許された特別な時間の終わり」やっと観た。
— ok (@manie_okmt) 2021年6月24日
「ドキュメンタリーを撮る」と友人のミュージシャンを撮り続けた映画監督と、夢を諦めた元ミュージシャンと、自殺したミュージシャン。ひりひりした。
今この瞬間に終わりがくるとわかっていればいいけど、終わりは終わらないとわからない。 pic.twitter.com/MzhQDOVOD6
ストーリーを知っていたとはいえ自殺したほうのミュージシャンの顔色がどんどん悪くなっていくのはわかって、でもそれは死という結末を知っていたからそう見えていたのかもしれない。それより夢を諦めたほうの男の変わりよう、時の流れに恐ろしくなった。死は時を止める、時が流れ続ければ人は変わる。
— ok (@manie_okmt) 2021年6月24日
「音楽なんて聴かなくても人死なないんだからやらなくてもいいじゃん」という言葉に反発したり「稼ぐ稼がないとか(関係なく)好きな音楽やればいいんじゃないすかね」とぼやいていた男が、数年後に「(もう音楽は)全然やってない。楽器買うより子供の服とか買ってやりたいもんね」と笑う。ぞっとした。
— ok (@manie_okmt) 2021年6月24日
ぞっとしたのはその男の変わり身がどうとかではなくて、時間というものには何も勝てないことや、人の感情や意思や信念は変わりうるという変化の可能性への恐怖で、それは自分に対しての信頼のおけなさに繋がっている。万物は須く変化する。私がいま足場だと思ってるインドへの愛もいつか変わるのか。
— ok (@manie_okmt) 2021年6月24日
変化を拒絶するなら死ぬしかないのだろうか。前も書いたけど死は不変で安定していて、生は変化の可能性に開かれた不安定な場だ。この二人のミュージシャンは全く別の道を歩んだ。でも監督はどちらでもない道を模索しているように思えた。揺れながら生き続けることはできるんだろうか。
— ok (@manie_okmt) 2021年6月24日