百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

9月19日(金) 過去の肯定と手放し

もう数日で新月を迎える夜空は暗く、虫の声も相まって最近はぐっと秋の気配が深まってきた。「一雨ごとに涼しくなる」とは先日会った友人の発言で、その言葉が妙に気に入った私は、雨が降るたびに夏の遠くなる切なさと冬の近づく興奮を味わっている。

良い日々だと思う。心がぐらっとすることもあるけれど、インドで編み出したおまじないの言葉「そのまんまでいいんだよ」を自分に声掛けしてあげれば、ふっと中心に軸が戻るような感じがする。そのまんまの自分で身をゆだねていればいい。

 

昨夜も飲み屋でいろんな人の人生や他者に対する考え方を聞きながら、みんなそれぞれ「そのまんま」の自分で生きていればいいね、とぼんやり考えていた。不安や怒りに苛まれる心も、悲しみに暮れる心も否定せず、喜びにもわくわくにも制限をかけず。
私の心はどんどん子供の時の感覚に戻ってきているかもしれない。物心がつく前の、周囲の大人たちに気を遣うことを覚える前の自分はこうだったかも、となんとなく思った。達観や諦観と呼べるものではなくて、子どもの心のまま世界を眺めているような。

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とはいえ期待や執着を完全に手放せたとは思ってない。
それができるようになるのはきっと死ぬ間際で、生に執着するから生きていける部分もあるのだろうし、わかりあえる・わかってくれるはずだという期待があるから、心がぐらついても他者と関わり続ける。

期待と信頼は本当によく似ていて、今でも私は自分の中にある光が期待なのか、それとも信頼や信念の類なのか、わかっていない。ただ、信頼は肩の力や手の力が抜ける感じがある。「大丈夫だよ、いってきます/いってらっしゃい」と心穏やかにほほ笑むことができたなら、これはたぶん信頼なんだろう。期待は少し重い。切実さや切迫感もあり、何かベタッとした湿度を感じる。

 

時と場合によって私は握りこぶしをゆるめ、場合によってはぎゅっと握りしめ直したりする。以前のガチガチだった私に比べたらたいした成長で、あっぱれです。
それでも過去の私は、ガチガチに期待を握りしめている必要があると思っていたから握りしめていたわけで、その自分のことも否定しない。守ろうとしてくれてありがとう、と思う。

私は、過去の自分の行動のすべて、選択のすべて、そして望んだ覚えがなくとも私の置かれていた環境すべてを、もう否定しないことにした。私は一度離婚を経験しているけれど、結婚したことも離婚したことも本当に大切な経験だった。ずっと許せずにいた中学生時代のいじめられ経験も、小学校時代の傷つきも、毎晩続いた両親の喧嘩や別居も、すべて、その経験があるから「今ここ」にこの頭と心と身体をもった私が存在している。

そのまんまでいい、と今ここの自分の存在を認められた瞬間から、過去の全ても「それでよかったのだ」と心の底から思うことができた。すべて必要なことだった。いや、「すべて必要なことである」と今の私がそう見做した。だからそうなった。

社会学でも言われているように、”過去”というのは現在の視点からの「構築物」である。過去に起きた事実や出来事は変えられない、だけど、視点を変えたり自分の内側にある思い込みを手放すことで過去の「解釈」を変えることはできる。そして本当はその解釈自体が、私たちの人生を彩っている。
(これは論文にも書こうと思っている。虐殺被害者のコミュニティーに8年以上も寄り添って過ごしてきたことの意味は、時間や時代の流れと共に過去に対する解釈が変わっていく人の姿を見続けるためだったのかもしれない)

 

また一つ不思議なご縁が繋がって、来年あたりに新しい何かをやることになるかもしれない。街づくりやコミュニティーづくりに繋がりそうな面白い話にわくわくしている。
新しく何かを始めるために、古い何かを終わらせようと思った。それで、大学院の退学届を出した。9月末をもって退学することは決まっていたのに、心残りがあって提出できていなかった退学届を、ようやく提出できた。

まるで脱皮するかのように、古くなってそぐわなくなった立場や肩書きや関係性を手放していく。あれだけ学生を辞めることやキャンパスから離れることが寂しかったのに、不思議と、「もういいか」と握りしめていた手を放すことができた。
たぶん、心の準備が整ったのだと思う。ガチガチに恐怖で固まっている心に「手放せ!」と迫っても逆効果で、『北風と太陽』じゃないけれど、「何を感じてもいいんだよ。守りたくて守ってきた、その選択は立派なものだったよ」と認めてあげると、スッと楽に次の一歩を踏み出せる。「あんなにも大切だと思っていたのに。守ると決めたのに手放してしまうなんて」と今の自分の感覚や過去の自分の覚悟を責める声が聞こえてきたら、むしろチャンスだと思う。脳みその恒常性維持機能が働いているだけで、心はもう次の方向にむいている証拠。手放せるタイミングだ。

 

そうやって心の準備を待ちながら、少しずつ自分のタイミングで握りこぶしをほどけるようになってきた。これからは自分に対してだけでなく、他者に対してもこの視点で接し続けることが課題になるのだろうな。


ちなみに退学したあとも博論を受け取ってもらえる猶予期間があるらしいから、引き続き論文の執筆と、問い旅プロジェクトと、ヒンディー語講師と、翻訳業をがんばる予定。コミュニティー関係のお仕事が増えるなら、何かしらあともう一つ手放したいね。翻訳業も、そろそろ手放していいかもよ。