百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

11月14日(金) 秋の陽だまり

ぬくぬくと過ごしている今日この頃。
明日は東京の奥多摩のほうにある社長氏の山小屋で芋煮会をやり、来週には京都で観光がてらウォーキングの予定で、楽しい用事が週末を埋めていることにほっこりする。そういえばもうすぐ外語祭もある。外語祭が終われば大好きな年末の気配がやってきて、あっというまに年越し準備が始まる。私は自分の誕生日が一年で一番好きなイベントだけど、その次に好きなのはクリスマスでも夏休みでもなく「年越し」である。今から師走のあの空気を心待ちにしている。

 

秋は苦手な季節だったのに、いつのまにか穏やかで楽しい季節だと感じられるようになっていた。陽だまりのあたたかさがちょうどよい。2月末の陽だまりも良いけれど、11月も悪くないわね、と斜に構え。

最近の私は周囲の好意にだいぶ甘やかされていて、陽だまりでぬくぬくしていると本当に溶けてしまいそうだ。たとえば飲みすぎた夜に社長氏が「明日の仕事休んでいいよ」と笑いながら言ってくれたこと、たとえば好きな人がちゃんと向き合ってくれて話をしてくれたこと、たとえば大好きな友人が私の話を聞くために飲みに付き合ってくれたこと、たとえばお世話になってるお店の店主が私のことを人として好きであると伝えてくれたこと…。
これらのご厚意/好意はボーナスタイムだと思って享受することにしている。これまで数年間、ひたすら私は私に向き合って頑張ってきたんだから。
自分を全て受け入れること、肯定できない自分がいることさえ受け入れること、感情を大切に扱うこと、そのままの私で生きていいと許可すること、制限をかけずに欲しいものを「欲しい」とちゃんと欲すること。
その結果がめぐりめぐって今、他者からの厚意という形で還ってきてくれたのだと思う。秋の陽だまりはぽかぽかと暖かく、銀杏並木の紅葉は美しい。自分の心に余裕があるからか、世界平和を深く祈ってみたりもする。

もちろん将来の仕事のことだとかを考えると、まだ心が揺れるのだけど。研究職にはまったく採用される気配がなく、焦る。というか私が一つの機関に所属して働くということに向いていないせいなのだけど。

 

先日の夜、好きな人と久しぶりにゆっくり話をすることができた。

私の勝手な見立ても混ざっているけれど、この人は子供のころに両親との関係性の中で深く傷つくような経験をしてきていて、だからこそ自分が人を傷つけてしまうことが怖くて仕方ないのだろうなと理解している。「自分はこういう人間だから」と線を引いて「嫌われても仕方ない」というポーズをとりながら、本当は誰からも嫌われたくないと思っていて、それでいて自己表現する欲求も捨てられない。だから本音を茶化したりおどけたり周りの空気を読んで自分のふるまいを決めている節がある。私のことを傷つけまいとするのもその延長にあったと思う。

でも、先日の夜会では少し違っていた。勇気を出してくれていた。それだけで私は十分嬉しい。本音や素直な本心で生きようと藻掻いている彼の姿が美しくて、そんな彼に惚れ惚れとしながらお酒を飲んだ。

そして、彼とこれからの未来について、私の望む関係性について、話せたことが嬉しかった。それに向き合うと決めてくれたことも、たまらなく嬉しかった。「これからよろしくね」とぎゅっと手を握りあったとき、胸に何かがこみあげてきて、思わず腰が抜けてへたりこんでしまった。ここまで長かった。安堵の涙がぽろぽろ落ちる。

関係を深めていけばどっかしらで人と人は衝突する。お互いを傷つけるときもあるかもしれない。だけどその傷をこの人なら乗り越えられる、あるいは、この人からの傷なら自分の成長や宝物になると思えたとき、覚悟して関係を進めようと思えるのかもしれない。社会の常識だとか周りの目とかはもはや関係なく、次のステージに進むかどうかを決めるのは常に「私たちに向き合い続ける覚悟があるかどうか」なのだと思う。

 

これから何が起きるか私には予測もつかないし、しばらくは彼の覚悟が本当に定まっているか(=私の覚悟も同様に)を見極める時間も必要になると思うけれど、やっぱり秋の日差しはあたたかくてゆるやかで、この気候なら大丈夫だろうと楽観してしまうのだ。秋は良い。冬も良い。これからどんどん楽しい季節がやってくる。

季節は流れる、荒れる日も健やかな日も波のようにやってくる。万物はすべからく流転する。それが嬉しい。この世界は美しい。

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