百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

9月18日(水) 西荻窪の文化交流場~Les Corbeaux,ちゃちゃぶん,西荻のことビル~

いよいよ今週末の土曜日は西荻窪での街歩きワークショップ。

「普通」の街で「異文化」を発見しよう、というテーマで、どんな街でも自分にアンテナが立っていれば海外や別の文化圏にいるような感覚になれるんだよ、ということを体感してもらいたいなあと思う。

その広報も兼ねて、昨日は主催の(株)Saniwaの坂本さんとインスタライブをやった。こういう顔出ししての配信は初めてなので緊張したけど、台本も事前打ち合わせもなしのフリートークで伝えたいことを散りばめつつ普段から考えていることを楽しく話せて本当に良かった。(でも不慣れだったので開始でてこずったり、タブレットを下の位置に置いていたから鼻の穴が丸見えだったりで恥ずかしい。見返す気持ちにはなれない)

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インスタライブのあと、西荻窪に出てLes Corbeaux(ル・コルボオ)へ。

最近は日替わりでテーマを決めてレコードを流しているらしく、昨夜はセロニアス・モンク特集だった。私はジャズについて詳しくないのだけど、モンクはすごく好きだ。(あとはサン・ラーくらいしか知らない)

 

モンクのレコードを聞きながら飲んでいたら、隣の席のご夫婦が「以前一度お会いしたことがあり、そのときにおすすめしてもらったカレー屋に行きましたよ」と話しかけてくれた。(私は西荻窪で一番好きなカレー屋はどこかと聞かれたら、必ず「パンジャービー・キッチン ラヒ」だと答える。めちゃうまなのだ)

 

そこから南アジア関係の会話が盛り上がり、私がインド研究者だと話すと、旦那さんのほうが建築関係の仕事をしている関係でインドに建築を見に行ったことがある、とさらに会話がはずむ。そしてスリランカにはジェフリー・バワという超有名な建築家の作ったホテルがたくさんあるのだという話を教えてもらった。

私は建築に疎いので、世界的に有名だというこの建築家のことも全く知らなかった。ネットで検索してみた建築物の写真はどれも美しく、私の好きな感じのデザインで、それを1960年代から作っていたことに驚く。

 

こういう場所で会話を通して知識の広がっていく感じがたまらない。この時間、この空間が大好きだなあと思う。

街歩きワークショップが無事に終わったら、酒場歩きワークショップのようなものもやってみたい。自分の知らない世界=異文化にどんどん出会いたい。

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思うに、西荻窪には他者の世界や文化と偶然に交われるような場所がたくさんある。

最近足しげく通ってお世話になっているバー「ちゃちゃぶん」もそうで、店主はオーボエやソプラノサックス、声楽、伝統芸能に精通していて、そこで私はいろんなクラシックやオペラの作品を教えてもらった。お店に集う常連客もプロのヴィオラ奏者や美大の先生から藍染め作家まで、私の知らない「文化(世界観)」の中に生きている人たちが多い。もちろんそういうプロや自営業者ではなくて会社勤めの人でも、自分の得意分野や好きなものがはっきりしていたり、自分なりの哲学をもっている人が多いという印象を受ける。

ありがたいのは、彼らがそれを他者にも開いてくれることだ。私はそうやってその人の文化や世界を覗かせてもらい、さきほどの建築家のような新しい知識や知見を得て、自分の文化や世界をより豊かにしていると思う。

 

今度のイベントの開催地である「西荻のことビル」(正確にはイベントはことビル2階のシネマ準備室でやる)も、日替わりでいろんな人がランチやカフェの営業をしていたり、店内スペースにお店を出していたり個展をやっていたり、と多種多様で雑多、それなのに一つの空間としてまとまっている。あそこでは常に誰かと誰かの文化が混ざりあい、新しい何かが生み出されているような気がする。

 

(ご興味ある方はぜひお申し込みいただければ。残席2らしいです)

https://wagamachi-fushigi01.peatix.com/view

 

 

中秋の美しい名月を見ながら無事に帰宅。

自分が広がっていくような楽しい一日だった。

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9月15日(日) 他人の目を気にする

びっくりしてる。気づいたら先日書いた記事にたくさんのスターがついたりブックマークしてもらったり。アクセスを見てみたらいつもより増えていた。もちろん「万バズ」なぞではないけれど、いつもより10倍くらいには。

 

そわそわして落ち着かない気持ちになる。多くの人が見てくれているんだから良い記事をもっと書かなきゃ、みたいな声が頭の中に流れて、ハッとした。また自分の感覚以外のものを良し悪しの評価軸にしそうになっていた。自分で自分のことを最高だと思えたらいいよね、と言っておきながら、また私はすぐにこれだよ。

 

 

他人からの評価で頑張れるものごとはすごく多い。褒められたら嬉しいし、ちやほやされたら浮かれるし、貶されたら落ち込むし、歯牙にもかけてもらえなければ悲しくて悔しい。

それが作品をつくるモチベーションになったり、あるいはインスピレーションになったりもする。だから他人の目や他者からの評価も悪いもんじゃないんだ。マズローの5段階欲求の図にもあるように、ほとんどの人間は多少なりとも承認欲求を持っているのだろうし。

問題はその他者の目や評価にがんじがらめに囚われてしまうことで、自分の感覚を置き去りにして評価を求めにいってしまうことだ。きっと承認欲求とうまく付き合うにはコツがいる。酒のようだな。どんなものでもそうなのだ。

 

外側に向きがちな自分の心すら、今はいったん「良いよ」と受け入れた。そのうち気にならなくなるか、うまく付き合って自分の糧にする方法を見つけるんだろう。

思うに私は、自分のポテンシャルを信頼してあげられているみたいだ。変化することを信じている。

 

つねづね「素直な文章」を書きたいと思っている。飾らず、背伸びのない、等身大の私の言葉を大切にしたい。思っていないことを「こう思う」と書かない、気にしてることを「気にしてない」とうそぶかない。

だから今日この日記を書けて良かった。急に増えたアクセスが気になって気になって仕方がない私が今ここにいることを、正直に書けて良かったなあ。

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9月13日(金) トラブルとトントン拍子

今日はすったもんだありながら自分の強運と周りの人の優しさに助けられた日だった。

 

いよいよ来週21日、西荻窪で街歩きのワークショップを開催する。今日は午前中にそのイベントの主催者とオンラインで打ち合わせ。広報も兼ねて17日に初めてインスタライブをやることになり、俄然やる気。無軌道に色々と喋るつもりだ。

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昼過ぎ、今回のイベント会場であるイベントスペース兼カフェ「西荻のことビル」に挨拶に行くことにした。

その前に久々にランチ営業を再開したLes corbeaux(ル・コルボオ)でカツカレーを頂く。安定の美味しさにほっこり。ゴーヤの入ったサラダもうまし。

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店主から、試験的に土曜日の午後に音楽カフェとして営業し始めたと近況を伺い(ここは基本20時〜のレコードバーである)、じゃあ近いうち遊びに来ますね、なんて話す。

 

そしていざ会場予定地の「西荻のことビル」へ。

担当者は買い出しに出ていたが、せっかく挨拶に来たのだし、とカフェスペースでぼんやり戻られるのを待つ。ここまではすごく順調で穏やかな時間が流れていた。

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担当者さんが帰ってきたので挨拶をすると、不思議そうな顔でパソコンを見ながら「予約されたんですよね…?」と問われる。えっ…?なんだか胸がザワザワしはじめた。

「もう一度お名前いいですか?」と聞かれ、主催者の名前(企画は私の持ち込みだが主催は別)を告げるも、予約メールはやっぱり届いていないようだった。

胸のざわめきが的中する。お見合いしてしまったのだ。私は主催者が予約するだろうと、主催者は企画持ち込みの私が予約するだろうと、お互い思い込んだまま開催1週間前を迎えてしまっていた。

 

13時半から17時半までのイベントだが、基本は街歩きなので部屋を使うのはオリエンの1時間と、街歩き後のシェアタイムの1時間だけ。しかしイベントスペースは昼過ぎから夕方にかけて埋まっていて、かろうじて13時半〜14時半までカフェの作業テーブルが空いているだけだという。

すぐに主催者に連絡をとり、いろんな案を話し合う。ことビルの担当者の方もいろいろと柔軟な提案をしてくださり、とりあえず13時半〜14時半は作業テーブルを使うことになった。

 

悩むのは夕方のシェア会の場所である。主催者はレンタル会議室か最悪カラオケでもいいんじゃないと言うが、私は西荻らしさを感じてもらえるようなところでやりたかった。

 

そんなとき、頭の中にコルボオの店内の風景が浮かんだ。土曜日の午後から営業する方針に変えたばかりのあのレコードバーでイベントできたら、めちゃくちゃ良いのではないか…?!

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というわけで慌ててコルボオに引き返し、21日の16時から貸切営業にしてくれないかと相談したところ、快く承諾していただいたのでした。

 

偶然ではあるけれど、当初のイベントスペースよりも経費が安くなりそうだ。西荻らしい店を2ヶ所も使えるということで主催者も「さらに街歩きらしくなった」と前向きに受け止めてくれた。元々は確認ミスによるトラブルだったのに、私としても最高だなと思う形に着地した。すごいなあ。

 

さらにびっくりなことに、帰宅して部屋で一息ついていると「西荻のことビル」の方からメールが届き、13時半〜14時半の1時間は2階のイベントスペースを開けられることになったから使って良いという。これで申し込みサイトや印刷済みのチラシの集合場所の案内を変更する必要もなくなった。いや本当にすごいよなあ。。

 

たまたま運が良かったのだとは思うけど、周りの人がみんな優しくて、どうにかする方向で柔軟に考えてくれたことが大きかった。私は本当に人や環境に恵まれている。

コルボオの店主と奥さんも、ランチ営業後の店じまいのところに私が顔面蒼白で戻ってきたものだから、私の身に何かあったのかと真っ先に心配してくれたほどだ。やさしすぎる。

 

インドみたいだな、となんとなく思った。あの国はトラブルばかりだけど、(行政はさておき)ローカルな民衆は柔軟な人が多く、知恵と工夫と寛容さでトラブルをなんなく乗り切ってしまう。まあ、たまに全く乗り越えられてないものを「ノープレブレム」と言い切るのは問題なのだが。

 

そんなハラハラドキドキを乗り越えて無事開催が決定したイベント、ご興味ある方いればよければご参加くださいませ。

https://wagamachi-fushigi01.peatix.com/

 

9月10日(火) 自分を「最高」と思えるように

今朝は体がなんだか軽くて調子がいい。昨日、食べたいものを食べて、早めに寝たからだろうか。つくづく体は素直だなと思う。食べ物、睡眠時間でこんなにも。

 

今日はバイトの日なのでお弁当を作り、それでも時間がたっぷり余ったのでコーヒーを淹れて本を読んだ。

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宮地尚子『傷を愛せるか』をやっと読了。時間がかかったのは別の研究書や論文を読みながらだったこともあるけれど、とにかくこの本の内容がしみじみと良くて、宮地さんの文章も味わい深く、ゆっくり噛み締めるように読み進めてきたからだ。

どこにでも連れ回してしまったので本はかなりくたびれてしまった。中にもたくさん線を引いている。それでも誰かに貸したいからもう一冊、布教用に買おうかなとさえ思っている。それくらいここ数年でテーマも文章も好みの本だった。柴崎友香『百年と一日』以来の出会いかもしれない。

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昨日は以前から気になっていた琥珀糖を買いに、散歩がてら専門店へ出かけた。自分の誕生石を模した琥珀糖を見つけてうきうきする。

昔から適度な透明感のあるものがなんだか好きだった。幼稚園くらいの頃に祖母に買ってもらった透明な石を今も取ってある。よく100円ショップだとかに売っている、トイレのタンクなどに置かれることの多いピンクや水色に着色されたアクリルの石だ。おはじきやビー玉も好きだった。透明なガラスにすーっと一本筋の色が入っているものや、色が徐々に透明へとグラデーションになっているものを眺めていると、すごく幸せな気分になる。天然石は少し色味が強すぎるというか、主張が強いというか、物によっては苦手だなと思うのだが、誕生石なこともあってアメジストは特に好きだ。

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帰り道、今日(9月9日)は重陽節句だと思い出して花屋で菊の花を買った。

最近、私は何かにお金を払う時や自分の時間を使う時に「大丈夫?無理してない?」と問いかけるようにしている。無理して人付き合いしたり、払いたくもないものにお金を払ってしまったりする癖があることに気づいたからだ。

それは大部分が「いい人に見られたい」という欲によるもので、しかしその他人視点での生き方を続けていると疲弊する。ありのままの私だといい人じゃない、演じてないといい人じゃないみたいに思ってしまう。そんなことないのにね。

だから私自身が私のことを「最高」「いいね」と思えるように、物を買う時にも注意深く「これは本当に私のために買うもの?これを買った私のことを、たとえ私1人だけだったとしても最高だなーって思える?」と問いかけて、それでも欲しいなと思ったものを買うようにしている。そうなると当然、買い物一つに対して時間はかかるようになってしまったけど、それを買った時の満足感が以前とは違う。

家に帰って菊を飾り、琥珀糖を食べながら杏ソーダを飲む。最高だなあと思う。誰にもこの最高さを伝える術がなかったとしても、間違いなく私はこの空間と時間を「最高」と感じていた。(だけど私は根本的な欲求に「人と分かち合いたい」があるから、この最高さを文章なり写真なりで誰かに伝えたくなる。それはもう私の本能的欲求なのだ。)

 

今朝の体とメンタルの調子が良かったのは、もしかしたら昨日のこの時間のおかげかもしれない。自分で自分を最高だと思える空間と時間を今日も大切にしていきたい。

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9月7日(土) 落ち込みたいなら落ち込めばいい

季節の変わり目を迎え、自律神経が盛大にバグっている。いつも私を支えてくれてる交感神経と副交感神経だから、たまにならバグってくれても構わないけどね。

幸いなことに出勤も今は週1になり(月末から週2に戻るが)、友人や知人にも「いまメンタルが崩れてるので会いたくないです」と断りをいれられるようになったので、生活がままならない事態にはなってない。

だからいいんだ、落ち込みたきゃとことん落ち込めば。

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自律神経失調症なのか、それともソーウツなのか、とにかく気分のアップダウンがすごくてジェットコースターみたい。

火曜日の午前は快適にすいすい過ごせたのに、夜には曇り空になり、翌水曜日の日中は暗雲が垂れ込めていた。かと思えばその水曜の夜はまた気分が良くなり、木曜日の日中はだるくて動けず、夜には気分が持ち直し、寝る前にはルンルンすぎてスキップしそうになっていた。

 

こんな調子なので、人に会う予定は直前まで様子を見て、無理そうなら断ることにした。先日ひとしきり人付き合いについて悩んで、私なりに私を守ろうという結論を出したのだ。

 

火曜夜の落ち込みがなんだったかは今ならわかる。私は打ちのめされていた。知人から紹介された同年代の文化人類学者があまりにも眩しくて、それに比べて自分は口ばかりで何もできてないように感じてしまったのだ。

誰かをすごいと評価するときに、自己卑下をセットにする必要もないのに。

 

そういう落ち込みや不愉快な気分を、だけど、私は不要だとは思わない。落ち込みたかったんだ、そのときの私は。気を紛らわせること、明るい側面を見ること、すでに持っているものやあるものを数えて豊かな気分を維持すること。全部大切だけど、その前に、落ち込んだ自分の隣に私はそっと座っていたい。

つい「私は何もできてないじゃんか」と自分を責めてしまう自分のことを、責めない。責めちゃうんだね、それくらい悔しかったんだね。

今の私にはそのワンステップがどうしても必要なんだと思う。

 

これを書いている今日は、朝はもやもやしていて、でも今はなんだかスッキリしていて、そういう日々をまだしばらく繰り返すんだろうけど、季節は確実に変わっていって、私の中の波も確実に穏やかになるときがくる。だから大丈夫。

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9月3日(火) 楽しさの種類について

今朝は前日に決めた予定通りに起床できて家事ができてスムーズに家を出られた。

そうなると私はご機嫌なのだけど、決めた通りに動けることの楽しさはなんだか脳みそ的な楽しさだとふと思った。頭のてっぺんが気持ちいい。胸のあたりのほんわかする楽しさや喜びは種類が別で、なるほど、幸福ホルモンの種類によって受容器が違うのかもしれないと仮説を立てた。

 

代表的な幸福ホルモンのセロトニンオキシトシンドーパミン。これはそれぞれに働き方が違うそうで、セロトニンは安心感や安定、オキシトシンは人との繋がりや愛情、ドーパミンは集中や達成感に関係しているという。

 

決めた通りに動けたな、と感じる時の気持ちよさは「達成感」に近くて、これはドーパミンに分類されるのだろう。それで頭が気持ち良くなっている。

おいしいご飯を食べているときや、夜にろうそくを灯して「ほぅー」っとしてるときの気持ちよさは胃のやや下のあたりにドシンと響くような低音の心地よさがある。これはおそらくセロトニン

恋人といるときや友人といるとき、会話が楽しいときやわかりあっている感じがするときのキュンキュンするような幸福は胸のあたり。これがたぶんオキシトシン

 

私はわりと体感覚が強いほうなので少し意識して感じ分けてみたけど、どうなんだろう。仮説だけど、他の人の感覚も知りたいな。

9月2日(月) つながることだ生きるには

土曜日、体が重くてだるくて、ほぼ半日布団に寝転がっていた。

映画の自主上映会に行く予定だったのに起き上がれないのでどうしようもない。なんとか行きたいが行けないだろうか、どうしよう、行きたいのか行きたくないのかすらわからない、いや、体が動かないってことは行きたくないのを義務感で行こうとしてるのか?など逡巡しているうちに予定時刻は過ぎ、欠席連絡さえ送れなかった。迷惑な人間である。

 

久々にイライラさえ通り越して虚無な感情になっていたけど、気圧のせいだと気づいたら肩の力が抜けた。外部の環境に影響を受けやすい私の心よ。まあそれは別に悪いもんでもない。私の心が外に開かれているってことだ。

 

感情や感覚に寄り添って自分で自分をケアするために、私にとって食事や調理は一つの技術なのだった。自分と対話するためのコミュニケーションツールというか。

お腹は空いている?いま何が食べたい?シャキシャキとしっとりどっちがいい?辛いもの酸っぱいもの甘いものしょっぱいもの何がいい?それを作りたい?買いたい?食べに行きたい?火を使える?包丁持てる?

実際はこんなに自分を質問責めしているわけではないけど、もはやほぼ無意識に自分に問いかけている。「ちゃんと」調理をする必要なんかない。包丁を握れなければ野菜を手でちぎっていいし、それも無理ならカット済み野菜を買えばいい。なんでもいいから「自分の食べたいものを自分に食べさせてあげられた」「自分で(ドレッシングかけることでも)作れた」と思えれば。

そうやって自分につながることで、気だるい憂鬱をなんとか乗り越えた土曜の夜だった。

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まるでご褒美のように、翌日からは楽しい時間が待っていた。日曜は大好きな人と楽しく飲み、今日も起きた瞬間から何故だか楽しく、ふんふんと鼻歌を歌いながら過ごす。

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今日は映画を見に行った。

風が吹くとき』という核戦争を題材にした古いアニメーション映画で、以前からあらすじは知っていたものの映像でちゃんと見たいと思っていた矢先にリバイバル上映が始まったのだ。

内容は予想していたほどトラウマ的なものではなく、どちらかというと「お前はどうなんだ」と問いを突きつけられたような、考えさせられる展開の作品だった。

無知であることや政府を信じきることを批判するレビューもあったけど、「知らない」ということを責めたってどうしようもない。たまたまこの作品は核と放射能という、日本人は歴史からその影響を学んできたテーマだったけど、未曾有の出来事、経験したことのない出来事についてあらかじめ全ての情報を知っておくことなんて不可能だ。私は「放射能は白くてふわふわした雪のようなものなんじゃないかな」という夫の言葉を笑うことはできないと思う。

それよりも私が思うに、あの老夫婦が悲劇を迎えた大きな要因は「多様な他者との繋がりが希薄だった」せいではないか。彼らは情報源をほぼ一つしか持っていなかった。妻は夫から、夫は政府発行パンフレットからしか情報を得ていない。そして、情報が限られているという状況すら疑うことができなかった。

 

ここで私の言う「他者との繋がり」とは、ご近所さんや同じ国民といった同時代における横の繋がりのことだけを指すのではない(実際、劇中では他者の名前も出てきたことから、彼らが全くご近所付き合いをしてなかったわけではないことが窺える)。

そうではなく、過去から積み上げられてきた本や映画という、時間を超えた「他者」と繋がること、つまり本や映画のような作り手の現れる作品を通して過去における他者の視点や思考に触れることが重要なのではないか、と思う。

多様性というと国境を超えた空間的な多様性が真っ先にイメージされるが、時間にも多様性があるのだ。過去の人々の知見に触れることは自分の中に思考の引き出しを増やしてくれる。それが「状況を疑うこと」「自分の頭で考えること」につながる可能性を秘めているのではないか。

…とはいえ、読む本が偏っていたら思考も偏るのだけど。そして自分で偏っていることに気づくこともまた難しい。難しいことばかりで悩ましい、そんな世界をそれでも私は本を読み映画を見て音楽を聴き他者と議論しながら生きていく。

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