百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

9月2日(月) つながることだ生きるには

土曜日、体が重くてだるくて、ほぼ半日布団に寝転がっていた。

映画の自主上映会に行く予定だったのに起き上がれないのでどうしようもない。なんとか行きたいが行けないだろうか、どうしよう、行きたいのか行きたくないのかすらわからない、いや、体が動かないってことは行きたくないのを義務感で行こうとしてるのか?など逡巡しているうちに予定時刻は過ぎ、欠席連絡さえ送れなかった。迷惑な人間である。

 

久々にイライラさえ通り越して虚無な感情になっていたけど、気圧のせいだと気づいたら肩の力が抜けた。外部の環境に影響を受けやすい私の心よ。まあそれは別に悪いもんでもない。私の心が外に開かれているってことだ。

 

感情や感覚に寄り添って自分で自分をケアするために、私にとって食事や調理は一つの技術なのだった。自分と対話するためのコミュニケーションツールというか。

お腹は空いている?いま何が食べたい?シャキシャキとしっとりどっちがいい?辛いもの酸っぱいもの甘いものしょっぱいもの何がいい?それを作りたい?買いたい?食べに行きたい?火を使える?包丁持てる?

実際はこんなに自分を質問責めしているわけではないけど、もはやほぼ無意識に自分に問いかけている。「ちゃんと」調理をする必要なんかない。包丁を握れなければ野菜を手でちぎっていいし、それも無理ならカット済み野菜を買えばいい。なんでもいいから「自分の食べたいものを自分に食べさせてあげられた」「自分で(ドレッシングかけることでも)作れた」と思えれば。

そうやって自分につながることで、気だるい憂鬱をなんとか乗り越えた土曜の夜だった。

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まるでご褒美のように、翌日からは楽しい時間が待っていた。日曜は大好きな人と楽しく飲み、今日も起きた瞬間から何故だか楽しく、ふんふんと鼻歌を歌いながら過ごす。

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今日は映画を見に行った。

風が吹くとき』という核戦争を題材にした古いアニメーション映画で、以前からあらすじは知っていたものの映像でちゃんと見たいと思っていた矢先にリバイバル上映が始まったのだ。

内容は予想していたほどトラウマ的なものではなく、どちらかというと「お前はどうなんだ」と問いを突きつけられたような、考えさせられる展開の作品だった。

無知であることや政府を信じきることを批判するレビューもあったけど、「知らない」ということを責めたってどうしようもない。たまたまこの作品は核と放射能という、日本人は歴史からその影響を学んできたテーマだったけど、未曾有の出来事、経験したことのない出来事についてあらかじめ全ての情報を知っておくことなんて不可能だ。私は「放射能は白くてふわふわした雪のようなものなんじゃないかな」という夫の言葉を笑うことはできないと思う。

それよりも私が思うに、あの老夫婦が悲劇を迎えた大きな要因は「多様な他者との繋がりが希薄だった」せいではないか。彼らは情報源をほぼ一つしか持っていなかった。妻は夫から、夫は政府発行パンフレットからしか情報を得ていない。そして、情報が限られているという状況すら疑うことができなかった。

 

ここで私の言う「他者との繋がり」とは、ご近所さんや同じ国民といった同時代における横の繋がりのことだけを指すのではない(実際、劇中では他者の名前も出てきたことから、彼らが全くご近所付き合いをしてなかったわけではないことが窺える)。

そうではなく、過去から積み上げられてきた本や映画という、時間を超えた「他者」と繋がること、つまり本や映画のような作り手の現れる作品を通して過去における他者の視点や思考に触れることが重要なのではないか、と思う。

多様性というと国境を超えた空間的な多様性が真っ先にイメージされるが、時間にも多様性があるのだ。過去の人々の知見に触れることは自分の中に思考の引き出しを増やしてくれる。それが「状況を疑うこと」「自分の頭で考えること」につながる可能性を秘めているのではないか。

…とはいえ、読む本が偏っていたら思考も偏るのだけど。そして自分で偏っていることに気づくこともまた難しい。難しいことばかりで悩ましい、そんな世界をそれでも私は本を読み映画を見て音楽を聴き他者と議論しながら生きていく。

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