百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

7月30日(火) エッセイストかライターか

今朝は寝坊してお弁当を作れず。気づいたら今週は月火水金と平日に4回もバイトが入っている。出勤日は週2~3日にしたかったのに。まあ、代わりに8月は20日間の連休をもらうからいいのだ。

お弁当の代わりに昼は隣駅でランチ。

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今朝起きられなかった原因の一つが、昨夜起きた出来事について悩み考えあぐねていたからだった。朝も考えているうちに二度寝してしまった。

 

私はものを書くことで生計を立てていきたいのだけど、書きたいものは「私の個性・感性」を全面に出した文章である。私はエッセイやコラムや論文やエスノグラフィーを書きたい。というか、どう足掻いても、私の風味が随所に香り立つような文章になってしまう。結果的にエッセイや詩や小説のようになってしまう。

多くの雑誌やウェブの記事を読んでいて思うのだが、記事を書く「ライター」という職業は、恐らく根本的にエッセイストと違うのだと思う。ライターさんたちはみな、記事の対象になる物/者が存在感を示すようにわかりやすく、その特徴や魅力を引き出すように書いている。(オモコロのようにライターの個性を全面に押し出す「読み物」としてのウェブ記事は除く)

 

もちろん私だって他の人の世界観や好きなもの、わくわくするものを知りたいし、尊重したいし、いや、しているつもりだ。それがどんなに自分と異なる世界観や好みでも。

 

いま事業の立ち上げを一緒に進めている人のなかでも、事業の中核(オンラインサロン運営)を担う人たちと感性が異なることは以前から感じていたが、それはお互いの個性として認めあってきた。が、文章やキャッチフレーズについて、どうしても私が書くと彼女たちの世界観にあう文章や言葉にならないのだ。昨夜は運営のリーダー格の人に、拒絶に近い扱いをされた。

文章担当なら岡本さんね、と言われて任されたときは嬉しかったのに、どうしても書けないという壁にぶつかってしまった。そして、自分を曲げてまで相手の求める文章を書きたいという気持ちが湧かないことが大問題だった。

 

そしてわかった。私はライターにはなれない。私は書く対象の物/者の魅力を純粋に伝えられる人ではない。どうしても自分の感覚が入ってしまう、自分の感性を表現してしまいたくなる。

世の中のライターが自分の感性を表現していないと言っているわけではないので、あしからず。私は「自己表現」として文章を書くのが好きで、その「自己」が強すぎて対象物のそのまんまの魅力を伝えられないのだ。

 

「私にはこのサロンの魅力を伝える文章が書けない」という事実を認めることは怖かった。ここ最近ずっと、文章を書くことに私のアイデンティティを見出してきたから。それに、寂しかった。一緒に事業をやる、そのお手伝いをしたい、みんなに貢献したいと思っていたのに、役に立てない感覚がもどかしい。

 

でも、怖さや寂しさの感覚は一瞬で、むしろ自分の心に沿わない文章、本当に書きたくてたまらない文章以外は書けないのだと認めてしまうとスッキリした。

わがままだなあと思うけど仕方ない。これが私だ。無理やり書かなくてよかった。たぶん悲惨なことになっていたと思う。

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「無理です、書けません」と昼前に返答して以降、文章についてどうなったかは連絡がないまま夜がきて、私はいまもスッキリした気分で風呂につかろうとしている。これが正解だったんだなと自分の感覚が教えてくれる。

 

帰宅前に西荻窪の『猫の髭』で食事をした。店主のマダムにこの話をすると「ええ、ええ、あなはそういう人ですよ、親しい人はみんなわかってます。それでいいんです。あなたはそのまままっすぐ自分を生きなさい」と言ってくれた。

そういえばそうだった、親しい人たちは私のことをよくわかってくれている、そういう世界に生きているんだった。自分だけは自分の本音を認めつづけていく。理解してくれる人は理解してくれるし、そうじゃない人は離れていくけど、私が私の本音を理解し続けていれば、日々はとても穏やかで。

 

今日も自分のことを知ることができて本当によかった。

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