百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

8月1日(木)ぐるぐるまわる胃と右脳と左脳

朝から人間ドックに行ってきた。

採血と胃のX線撮影が苦手だ。単純に採血は痛くて怖いから。X線は発泡剤を飲んだ後のゲップを抑えるのが苦しいから。バリウムも美味しくないし。

重量感のある固体寄りの液体を飲みながら、かつて美術の時間にデッサンをしていた石膏の像を思い出す。私の胃が石膏像になっていく。

胃の形をした石膏像は撮影されるために台の上をくるくる回る。右から回転せよ、右ってどっちだ、こっちか、とぐるぐる回る。何度も何度も。

早起きだったのでひどく眠い。逆さになりながら眠気と戦っていたら「しっかりバーを握らないと落ちますよ」と注意された。頭が下になっている。下になっているということは、右脳はいま左に…?いや、右脳は右のままか。私は空間把握が弱い、立体が頭の中で描けない。右と左に混乱しやすい。

 

直前まで待合室で読んでいた本『傷を愛せるか』(宮地尚子 著)にちょうど右脳と左脳の話があって、胃の石膏像を撮影されながら、左脳に脳出血を起こした脳科学者の話を思い出していた。

左脳は思考や言語を司る。彼女は左側の脳だけが出血したため、「次にこうしたほうがいい」というような指示やおしゃべり=思考が消え、自分の個としての輪郭がなくなり、ただの生命の塊、つまりただエネルギーになったような経験をしたという。

(YoutubeにTEDでの講演の動画が残っていた)


www.youtube.com

 

 

なんとなくわかる。

私の場合、心理学や脳科学の本で学んだ知識が実感として腑に落ちたのは例のアンガーマネジメントのときに取り組んだノートワークだった。毎日の出来事を、事実と解釈(思考)と感情に分けて書く練習。これをカウンセラーさんに支えてもらい毎日添削してもらって、1ヶ月。そのおかげで自分の中に思考と感情、理性と本能のようなものが別々の(しかし連動している)部位として存在していると納得できた。

bharatiiya.hatenablog.com

 

 

そして最近、今まで思考優位で動いていた私の脳みそが、感情や心を優先して動く回路に切り替わりつつあることを感じている。(思考が黙っている時間が長い)

ここに至るためだったのかはわからないが、私はあれからもずっとひたすらノートワークを続けていた。それから瞑想というか、ただ黙って自分の中にある感覚を良い悪いの判断を挟まずにながめる練習をしていた。

この「ジャッジしない練習」が一番効いたのか、最近の思考は自分の感情を受け止め、寄り添うために存在している感じがする。(その結果やりたくないことは出来なくなり、無理にやるとかなり疲労するが、ZINEを出したり個展を開けたり、毎日楽しく文章を書けて幸せだ)

この最近の状態が心地いいのは過去からの努力の結果だったのかもしれない。そう思うと気分が上がるから、そういうことにしておこう。

 

本を全て読み終わる前に人間ドックは終わり、受付に名前を呼ばれた。

面白い本だったので、今も晩酌をしながら続きを読んでいる。

精神医学の話はトラウマ研究くらいしか知らなかったのだが(私の博論に関係しているのでトラウマと記憶についてはそこそこ論文を読んでいる)、脳科学とつながる部分もあるのだな、そりゃそうか、精神を司る器官が脳だもんな。

それにしてもしっとりした、良い文章がたくさん並んでいる。素晴らしいなあ。私もこんな文章で、自分の研究分野のことをわかりやすく伝えていけたらなあ。

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