百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

7月6日(土) 生きてるだけでアートなら

昨日は期日前投票に行った。都知事が変わってほしいと願いを込めて票を入れる。

ふと「不幸な状態が変わらないことと、幸福な状態に現状が変化すること。両者のうち人間の脳みそが恐れるのは変化なので、無意識に前者を選んでしまう」という話を思い出した。脳みその恒常性維持という機能によるものらしい。

だから変わるための行動には恐れが伴いやすいし、変えようとする人や物に対して攻撃的な気持ちになることもわかる。

でも、潮時だよ。

f:id:bharatiiya:20240706150410j:image

 

 

投票に行く前、通りがかったギャラリーで個展を見た。

1-6.jp

素敵な言葉たちとドローイング。淡く、はかなく、でも確かな温度がある。

そうか、私もいつか日記を写真付きで飾ってもいいかもな。なんだって表現なのだ。なんだってクリエイトされたものである。

(ちなみにタイトルの日付と書く内容の日が一日ずれる問題は、夜にもまた日記を更新して追記すればいいんじゃないかと思い至り解決した。自由にやろう。)

 

 

一昨日、遠方に住む人とオンライン通話で話していたら「あなたは生きてるだけ、呼吸してるだけでアートだよ」と言われて戸惑う。

 

存在そのものがすでに感性の表現になっていると言われることに、肩の力が抜けるような、ほっとする感じがあれど、

「それじゃあ私は一体なんのために苦悶しながら論文を書いてるんだっけ。あれ、本当に論文書きたいんだっけ。」と不安に襲われ、怖かったから。

今書いているこの日記の文章、なんの苦も無く頭の中に浮かんできた言葉をタイプしている、というか頭に浮かんだという自覚さえなく手の動きに連動して言葉が出てきているような気もする。写真エッセイもそうだ、インドの写真を見ながらエッセイを書く時、おおかたの言葉はするすると出てくる。(整えるときは慎重に言葉を抽出しているが)

 

論文を書いているときも自然と言葉が出てくるときと、かなり頭を使って書いている部分と、両方ある。その「頭を使って書いている部分」がもういらないのではないかと不安になったのだった。

論文という表現を通さなくても私が私のままで表現になっているのなら、肩に力をいれて書いてきたこれまでの文章はなんだったのか。いや、そんな複雑なことも今は考えない、何も。

 

結局、私は書けなくなる自分を想像することが怖い。常に文章を書くことで私は私を救ってきたつもりだった。思えば、ずっと書いている。いつからか思い出せないくらい、ずっと書いてきたんだった。