百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

7月10日(水) 躁鬱(ソーウツ)の中間点と信頼

今日が投稿論文の締め切りの日だ。

字数はだいぶいっているのだけど、考察部分がほとんど書けていない。なのになぜか気持ちは軽やか。それどころか少し高揚感もある。「ライティング・ハイ」になってるなと思う。

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ライティング・ハイ、とは私がさっき思いついた造語だけど気に入っている。いつか立ち上げる私の会社の名前にしようかなとすら思った。それまでの第一候補は「株式会社ソーウツ」なのだけど、それだとまともな人は近寄ってこないかもしれない。もうそれでもいいのだけど。
ちなみにソーウツは「躁鬱」のこと。私は感情のアップダウンが激しすぎる気質で、気分の波に振り回されて言動も思考も変わってしまう。そんな自分を躁鬱人間だと思っているが、診断を受けたことはないので「ソーウツ人間」と表記する。躁うつ病(双極性感情障害)に悩んでいる人のことを揶揄するつもりは一ミリもないが念のため。
(私はソーウツな自分で生きてるのが楽しいし、友人に「この躁鬱人間め」と言われるのも嬉しいよ)

 

株式会社ソーウツ、を思いついたとき、同時にハイ&ローという会社名も思いついた。しかし先人がいる。ザ・ハイロウズだ。ヒロトマーシーも、ハイ(躁)とロー(鬱)の両極を知っている人たちなのかもしれない。

 

数日前に「私の言葉は届かないんだ…」というどん底まで落ちた。その日はどん底すぎて日記も書けなかった。そうです、空白のあの日です。

その「自分の言葉が届かない、無いのと同じ」という感覚は、私の根源的な恐怖に繋がっていたと思う。存在価値の否定に近かった。誰も私の言葉を聞いてくれないなら、受け取ってくれないなら、見てくれないなら、いないのと同じ。必要ないのと同じ。死んでいるのと同じ。植物人間になって誰からも見放される恐怖。絶望のイメージばかりが湧いてくる。

 

そして、そう感じる自分を、認めた。「そう感じるなら、そう感じていいよ」と自分に許可を出した。

恐怖を感じても、無価値観を感じても、役に立てない自分を感じても、なんでもいい。投げやりになっているわけじゃなくて、何を感じることも自由なこの世界で、私はその「無価値観」「存在感の否定」を感じることを、自分で選んだんだ、と思った。

鬱状態になることは、自分では選べない何かから「鬱」を強制的に押し付けられることだと思っていると、苦しくてつらい。早く抜けなくてはともがいてしまう。

でももしかしたら「今は鬱であること」を選んでいるのかもしれない、と思った。恐怖や絶望を感じたかったのかもしれない。

「死んでしまうかもしれない」と泣いて顔をぐちゃぐちゃにしながらも、それでも死ぬ勇気のない自分がいることを私はどこかで知っている。その二重の私ごとまるっと認めた。

 

その結果、
「私は発明王なのかもしれない」とハイになってる自分が今いる。

仕事の発注=仕事を発明すること、
だから私が誰かに何かをお願いすることも発明の一種、
めんどくさいと感じること全部まわりに発注しちゃお、
そうやって世界に発明品を一つ増やすんだ!
みたいな。

 

そして「今は発明王だと感じてるんだね、いいよ、そう感じていいよ」と、躁と鬱の真ん中に立ってる私がいる。

どっちを選んでもいい、どっちも選べることを知ってる。
これが安心感なのかもしれない。

 

私が言葉を吐き出し文章を綴るのは、私が私をいいねと思いたいから。

鬱を抜けた今の自分ならそれがわかる。そんなことは自然とわかる。そうじゃなければたいした動線も張っていないこのほとんど誰の目にも留まらない空間でブログを書かないし、そもそも紙で日記を書いたりなんかしない。

だけど「私が私をいいねと思いたいから書いてるんだ」という感覚を、鬱状態の私に「そう考えてごらん」と押し付けたりもしない。思い出せるから大丈夫、だから今は感じていることを素直に感じて大丈夫。自己信頼を高めた結果の境地かもしれない。

私の内面には「もう何を思ったっていいんだ」という、安心と安全の空気が満ちている。

 

さてと、論文を書きますか。