百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

10月31日(金) 先のこと/いろんな優しさ

昨日は朝から工務店のバイトをして、昼過ぎにはQWSに行ってプロジェクト関係の仕事をして、夕方にはヒンディー語の授業して、夜にはプロジェクト関係のイベントをこなす、という激務な一日を過ごした。

イベントの打ち上げで飲み、プロジェクトリーダーと同じ電車で途中まで帰りながら、「たぶんこの人の下で働くことはもうないな」と思っていた。良い人だと思うし、このプロジェクト自体はインドと内省を結びつけるという私のやりたい内容でもあるはずなのに、「この人のもとでは働けない」と直感が囁く。
「これ岡本さんの名刺ね」とカードの束を渡されたばかりだった。あんなに欲しいと思っていた名刺や肩書きが今はとても空疎なものに見える。この直感が間違っていてほしいと思い、まだ結論を保留にしている。でもたぶん私は彼のもとを去るだろう。

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不思議なことに、工務店の仕事を与えてくれている社長氏とのほうが、これから先も何かお仕事を続けていくことになるのだろうという予感がしている。工務店なのに。昨日も西新宿の現場に呼ばれ、二人で机と椅子を組み立てまくった。

椅子と机を組み立てる仕事よりはインド関係のプロジェクトのほうが、私のやりたいことにマッチしているはずだ。それなのに社長氏のもとで働くほうが楽しい。これは何なのだろう。

まだうまく言語化できないが、プロジェクのリーダーのほうは私を「利用」している感じがする。そんな意図は絶対ないと思うのだけれど、彼は無意識に自分のやりたいことを実現するために周囲の人を動かしている感じがある。私は駒のように使われることがとても嫌なのだった。
たいして社長氏は、私に見聞を広げるための機会を提供してくれているような感じがする。私が何をやりたいと思うのか、どういう形にしていきたいのか、その成長を見守ってくれている感じ。壁を塗ったり家具を組み立てたりシェアハウスや現場を掃除したりという仕事のどこに何の可能性があるのかはわからないのだけど…。

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いずれにせよ大切なのは、「私が何をしたいのか」をつかむことで、これをもっとうまく言語化していく必要がある。いろんな人間の生活・生の営みを言語にして伝えていきたい、私から見えている世界の形を言葉にしていきたい、表現として残したい。その「人間」の中にはインドで暮らす人々も当然含まれていて、彼らから見えている世界の形を私なりに掬い取って私の言語感覚でもって表現することがしたい。

私・私・私…とうざったいくらいにスタンドプレーで、別記事でも書いたとおり個人製作にばかり興味が向くのだけれど、でもこれはこの世界に生きる人間たちとの共同制作でもあると思う。

石牟礼道子のようだ。『苦海浄土』は水俣の人たちを中心に据えた作品のように見えるが、その中心にあるのは石牟礼道子の言語感覚だと思う。だけど、あの本は決して水俣やそこに住む人々の「利用」によって作られたものではない。何かが決定的に違っている。損得を超越しているからなのだろうか。その感覚をつかみたい。

 

忙しかった9月と10月が落ち着いたことで、冷静にこの先のことを考える時間ができたからなのか、自分は何をしたいのか、どう生きていきたいのか、を改めて考えるようになった。ちょうど好きな人もそれに迷っているのか、先日も飲みながら彼の苦しそうな吐露を受け止めて過ごした。

彼の話を聞きながら、誰にも嫌われたくないし誰のことも傷つけたくない、と数年前の私もよく考えていたことを思い出す。悩む彼の姿が過去の自分に重なって胸がキュッとなった。誰かを傷つけて生きてきた自分を許せないこの人は、とても繊細で優しいと思う。本当にルーズな人は、自分のことをルーズだと思わない。誰も彼のことを責めていない。責めているのは彼の頭の中で鳴り響いている声だけだ。

いや違うんだ、過去の自分は周囲をたくさん傷つけて、だから今の自分は他人に好かれたくて誰かを傷つけないように振るまっているんだ、と言われるかもしれない。
だけど、そうやって嫌われないように取り繕う自分自身を「これが自分だもんなあ」と受け止めてしまえれば、本当は苦しくないように思う。少なくとも私はそうだった。苦しいのは、自分のことを好きになれなかったからだ。自分で自分を責め、否定していたから、本来もっていたはずの優しささえも作り物のように思えて苦しかった。

 

人は本来的に優しい。いつも思うが、私は優しくない人間に会ったことがない。

彼もとても優しい。繊細な優しさをもっている。優しさにはたくさんの種類があって、たとえば社長氏の優しさはチャーミングで陽だまりのよう、親友の優しさはとても強くて美しい。彼の優しさはそれとはまた違う、繊細で柔らかくて人肌のぬくもりがある優しさだ。トロっとしたお湯や絹のストールのような感じ。弱いが故の優しさというか。そんな優しさを彼のなかに見ている。

「自分なんか」とつぶやく彼の隣でお酒を飲みながら、彼も私もみんなが自身の本来的な優しさを愛せますようにと願った。弱いままの自分で生きていくことさえできたら、もうそれで良いのだと。