百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

10月24日(金) 光る優しさ

先日、なんでか知らないが私のことを買ってくれている社長さんと、もつ焼きを食べながら、理想のパートナーシップや好きな仕事の進め方をだらだらと話していた。

お互いパートナーシップで苦労している同志でもある。社長氏の進捗報告を聞き、私のほうも頑張らねばなあと思いつつ、ホッピーを次々にお代わり。なお、もつ焼き(やきとん)が大好きな私だが、周囲にはもつ焼き好きが少なく、もつは好みもあるのでなかなか他人を誘いにくい。そんななかで彼は貴重なもつ焼き好き同志でもある。

しかし社長氏は根っからのマネージャータイプで、逆に私は一生プレイヤーでいたいというタイプなので、境遇的に似ている部分は多いが性質が全く異なるのだなあ、と改めて感じた夜会であった。

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全体を俯瞰して環境を整えながら作品をチームで創りあげていくのが好き、という社長氏に対して、私は、他の人の作品や働きなんかどうでもよく、いま私の目の前にあるキャンバスをどんな個人作品として仕上げていくかにしか興味がない。私の感受性、私の内側にある世界、それをどうやって表象して他者に伝えていけるか。言葉を使ってどこまで自分の内側の非言語的なものたちを表現できるのか。そこにばかりそそられる。

もちろん私にとっても他者は必要な存在だ。
でも、それはインスピレーションとして必要な存在であり、要するに「私の表現」を手助けしてくれる存在としか見てないのかもしれない、と最近感じている。それは他者という存在の「利用」なんじゃないのか、と悩みもする。
たしかに私は他者の人生に興味があるし、他者の思考や生き方にも興味がある。だからいろんな人に出会い、話を聞き、本を読み、映画を見ることが好きだ。でもそれらに触れることが嬉しいのは、そうした他者の存在が私にとってのインプットツールであり、私の表現の糧になっている、と感じるからではないか。

 

キンミヤ梅割りを飲む社長氏の頭部をぼんやり見つめながら、私は社長氏のような「優しさ」は持ち合わせていないのだろう、と思った。

私は私を表現していくことにしか関心をもてない。誰かをより輝かせるための土台を整えたり種をまいたりするような、誰かを支えるための「優しさ」は、私にはないのだった。

 

代わりに、強烈に輝いてやろう、と思った。生きている限り、輝こう。

嫉妬し、焦がれ、頭がおかしくなりそうになりながらも手を伸ばさずにはいられない、そういう他者が私の人生にはたくさんいる。私はいつも嫉妬する側だった。嫉妬しながらも「私だってやってやるんだ」と手を伸ばし続けた。
そのおかげで、ここまで来られた。まだ道半ばだけれど、ずっと走っていたいと思える道に出ることができて嬉しい。他者への嫉妬を感じるときもあるけれど、自分の取り組んできたことや自分の文章を愛でる時間のほうが増えた。

そして、私の存在を面白がってくれて買ってくれる社長氏に出会えた。

 

だから私も、人を奮起させるくらいの強烈な光を放とう。

最近になって他者から嫉妬を向けられていると気づいたが、それは良い徴候なのかもしれない。他者を嫉妬させ、気が狂いそうになるくらい焦がれさせ、「私にだってできるはずだ」と奮起させる、そういう光のような存在になろう、と思った。

それが私の「優しさ」なのだ。