最近、面白そうだなと思うお誘いをいただくことが多い。この週末は御岳山に行って小屋づくりを手伝ってきた。壁を塗る、左官仕事というやつだ。

たびたび書いているけれど、この秋はがらっと環境が変わる激動期であるように思う。飲み屋さんで知り合った工務店の社長のもとで色々とお仕事をやらせてもらうことになり、最近はシェアハウスの清掃を任せてもらっているのだが、初めて現場仕事も経験することになった。
ネタは重く、コテはうまく使えず、今も両腕が筋肉痛。そのうち慣れるよ、と社長に優しく励まされて現場初日を終えた。
そんな壁塗りを、脚立に渡した板の上でバランス取りながら早く綺麗に仕上げていく左官さんはすごい。今の私が当然のように享受して暮らしている住居は、誰かのお仕事で作られたもので、だけど私はたぶんその人の顔を見ることなく、出会うことなく死んでいくのだと思った。
同じく私の作った何かしらの作品ややってきた仕事は、誰かの人生に確実に存在しているけれど、私がそれをやったということを知る人はほとんどいない。不思議なものだ。その不思議さが人生の味なのだと思う。いろんな出来事を経験し、物事を知れば知るほど、不思議さが増す。奥深い。

私はあまり他人から嫉妬を向けられることの少ない、マイペースな人生を歩んできたと思うのだけど、最近ちょっとした人間関係のごたごたがあり、どうやら嫉妬を向けられていたらしいことを知った。(ちなみに私自身はとても嫉妬しいで、こないだも素晴らしい内容のエッセイに出会って嫉妬のあまり読み進めるのを辞めた)
そういえば中学生の頃にいじめられていたのも、何かしら嫉妬が向けられていた結果かもしれない。深く考えたことなかったけど。いじめの主犯だった女の子のことを、私はもうとっくに許してしまっているので、そもそも考える必要がなかったのだ。
「許す」って最強だなと思う。
誰にでも気持ちの変化や感情の波が当然あり、そうやって変わり続ける人の心がある以上、人間関係は季節のように移ろう。
私の場合は特に駆け引きじみたものが下手くそで、頭をつかったり策を弄したりして人間関係を維持したり思ったとおりに構築したりするのは無理だと諦めている。結果、今の私は心に従ってノーガードで生きている。流れる水のように、心が望むままに、悲しければ悲しんで腹が立ったら怒って、嬉しかったら笑って過ごしている。
嫌われたら悲しい。好かれたら嬉しい。そんな単純な気持ちに加えて、嫉妬しいな私は嫉妬することの苦しさも知っているから、「なんかまあ色々とみんな大変だけど生きててえらいよね」と思いながら今日もノーガードでやっている。飲みに行きたければ飲み、家に居たければ家に、嫉妬されていたらしい人にも会いたいと思えば会いに。
人間関係のごたごたがあっても、不思議なくらい私の中に変化はなかった。(いや、あるのかもしれないが、まだ認識できず言語化ができないだけかも)
ところで不思議なことに、そうやって自分の心に対して素直に生きていると、誰かがいつも手を差し伸べてくれる。ノーガードな私のガードを代わりに引き受けてくれるかのごとく。いじめられていた中学時代も、今も、そう。
駆け引きのようなものができないかわりに、そうやって人に守ってもらえる運の持ち主なのだろうか。他者にばりばり依存して生きているし、かえって小賢しいような気もする。人によってはこの生き方がむしろ駆け引きやあざとい手法のように見えて、ますます憎らしく思われるのかもしれない。
でも別にそれでもいいや、と思っている。私の生き方や私のモットー、私の美徳は、私が一番よく知っている。その本質の姿を見てくれていて、あなたはそれでいいのだと伝えてくれる友達や大切な人もいる。だから、それでいい。
最近こういう心境になれたことが、本当に嬉しい。
かつての私は、全人類に好かれたい、誰からも嫌われたくない、という思いが強かったから。私が私のことをちゃんと愛せるようになったから、もうそれで心が満たされているんだなあとしみじみ思う。
そして、そんな私のことを、大切な人達はちゃんと見てくれているのだった。