百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

11月23日(土) 人生の塩

フランソワーズ・エリチエという社会人類学者の書いた『人生の塩』という本がある。私たちの人生を味わい深いものにしているのは日常の些細な出来事、それによる心の揺れ動きである、というもので、簡単な説明やあとがきでの補足的な解説以外はほぼ全編にわたってエリチエ自身の「人生の塩」にあたる思い出や単語が列挙されている。

数年前になんとなく買って本棚に眠っていたのだけど、今の私に必要な気がしてパラパラとめくってみた。買った時には意味がわからなかった説明が、今ではよくわかる。楽しかったことや嬉しかったことだけでなく、つらかったことや嫌なことまで含めて思い出せる感覚的な喜び、それが私たちの人生を豊かにしているのだという彼女の主張に、一言一句頷く。

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昨日、久々に自分に立ち返ったような感覚になった。思い出したというべきか。

何者かであろうと力まなくても、頑張らなくても、そのまま私は「私」として存在している。ただそれで良いのだということ。特別であろうとか唯一無二であろうとか、そんなふうに意気込まなくても最初から、私という個体として生を受けて父と母の間にこぼれ落ちたあの瞬間から私はずっと特別で唯一の存在としてこの地球に存在しているということ。

愛されているのは、生きている限り、当たり前の感覚であるということ。何もしなくても、たとえ私に学がなくても、稼ぐことができなくても、言葉を発することができなくても、体を動かすことができなくても、愛されていて良いし存在して良いこと。

 

同じカウンセリングを受けてきた仲間がそのことに気づかせてくれた。自分で自分の存在を全肯定して、全受容する感覚。

「生きている」ということはそれだけで偉業なのだ、とエリチエも書いている。

 

昔、誰かに言われた。「楽しさではなく、歓びがあるほうを選びなさい」と。その言葉を私はしっかり胸に刻み、今まで生きてきたつもりだったけど、まだわかりきってなかったんだと思う。生きる歓びとは、自分が自分であるまま心を自由に震わせて生きることなのかもしれない。悲しみも怒りも生きる歓びなのだ。

 

今日からしばらく、私の「人生の塩」をノートに書き出してみることにした。好きなこと嫌いなこと思い出せること全て。

とりあえず今日は試しにここに書いてみます。ざっと思い出せることを並べたから昨日の話ばかりだけど、いくらでも過去に遡って自由に書いていいそうで。もし自分もやってみようかなと思う方がいれば、よければご参考に。

 

外語祭に行って、きらきらした光を浴びながらカイピリーニャを飲んだこと、落ち葉の上にピクニックシートを敷いてふかふかの感覚を楽しんだこと、ネイルシールが綺麗に貼れた、日陰が寒かった、野川公園の景色が良かった、初めて歩く道にわくわくした、足の指の間にマメができて痛かった、バスが蒸し暑かった、ウォーキング大会を断念するか迷った、マスターのパソコンの調子が心配、お風呂に入れた入浴剤の香りがさわやかで気持ちいい、先月末に買った菊がまだ美しく咲いている、朝に入れた保温ポットのお湯が寝る前までうっすらあたたかく驚いた、飲みやすい温度で心地良かった、、

 

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