(※性被害に関する言及があるので嫌な予感のする方は読むのを避けてください)
人のもつ欲求について、マズローという学者が提唱した「五段階欲求」というものがある。
いわく人は五段階の欲求をもっており、下から順に生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求、とピラミッド型に積み上がっている、という考え方である。
これを自分自身で満たせるようになると他人に依存したり他人の顔色を見て生きることをやめられるので生きやすくなりますよ、というのが私の師事しているカウンセラーさんの教えで、そのおかげもあってここ最近の私は一人でいてもじゅうぶん幸せだなあと感じている。
そして「一人でも幸せ」の状態と「一人だからこそ幸せ」の状態は別物で、前者にはパートナーがいても幸せ(もしかしたらもっと幸せ)だが、後者は他人と暮らすことを拒絶しているし思い込み=思考に制限が働いている。マインドフルネスはいかに思考の制限から自由になるかという生き方なので、ちょっと肩に力が入りすぎているのだ。まあ個人の好みなんですけども。
つまり、マズローの五段階欲求は自分一人でも満たしていいし、パートナーと一緒に満たしてもいい。のだけど、その視点が私からすっぽ抜けていた。さっきの例で言うと後者の視点に無意識になりかけていた。
五段階欲求をパートナーと共に満たす、というか満たしたい、ということを私はずっと認めてこなかったから苦しかったんだな。
たとえば生理的欲求は、性欲を満たすこと。一人でもできるがパートナーとするときの喜びや快楽はより深いものだと個人的に思う。
安全欲求は、自衛して自分の身を守れることはもちろん大切だけど、いざというとき守ってくれる、あるいは頼れる人がいるという安心感。
社会的欲求は、飲み屋に行って人との繋がりを感じることでも満たされるし、パートナーと晩ご飯を食べながら感情や感覚を分かち合うことでも満たされる。
承認欲求は、自分という人間の個性を周りに示して認識されること、そしてパートナーにとって「かけがえのない存在」と認識される、ひいては周囲にも「あの二人はパートナーだ」と認識されること。
その上で自己実現を果たす。つまり自分一人で成し遂げたい夢と同時に、パートナーと共に成し遂げたい夢を持っていていい。
五段階欲求というだけあって、一段下の欲求を十分に満たしきっていないと、上の欲求を叶えることは難しいという。身の安全が確保されていないのに自己実現したいと願ってもその夢に邁進できないように、ベースとなる欲求を順々に満たしていくことが良いとされる。
私の場合、まず生理的欲求の部分に大きなぐらつきがあった。性欲が自分にあることをなかなか認めようとしなかった。
これは以前ブログに書いたかもしれないが、高校生の時と社会人になってからの計3回も性被害にあっていることが影響している、と心理カウンセリングを受けて判明した。自分に性欲があることを否定しないと、性被害に遭ったのは私のせいだと自分を責めてしまうから。本当は性欲があることと性被害を受けたことにはなんの関係もないのに。
ちなみに私はトラウマ記憶に関する研究をしていて、精神医学の宮地尚子先生の著書で知ったのだけど、性に関する話題や異性からの性的興味を避けようとするのにむしろ近づく行動を無意識に選んでしまう、というのが性に関するトラウマをもつ人の特徴らしい。私が3回も被害にあっているのは1回目の被害のときに十分なケアを受けなかったからだろう。だからトラウマの再現行為を無意識にしていたのだ。
そうして性欲を否定していたので、私は恋人から体を求められることがつらかった。セフレ扱いするなと怒ったり喧嘩したり。性欲=私を傷つけるもの、と潜在意識下で認識していた(トラウマは潜在意識下に存在する)ので、恋人が私に性欲を向けることは私にとって暴力と同じだったのだ。
いまはカウンセラーさんや同じカウンセリンググループのメンバーとの相互ケア、そして恋人と長年かけて築いた信頼関係もあって、性欲をもっているのは当たり前のことだと理解できたし、恋人との性行為は最もわかりやすい愛情表現なのだと認識もできた。
「なに当たり前のことを言ってるんだ」と思われるかもしれないけど、みんながそうやって当たり前に認識してきたことを腑に落とすまでに事実4年かかったのだ。長い戦いだった。
ここまで諦めずに付き合ってくれた恋人には本当に感謝してる。この人がいたから私は性行為に対する思い込みを克服できたし、自分に性欲があることを受け入れることができたと思う。
こうして最下段がしっかり満たされた(受け入れられた)おかげで、上の段階にある安全欲求も受け入れることができた。彼を頼りたいとか守ってほしいという欲求があることを認めて、受け入れる。そうしたら、実はすでに守られていたことに気付かされる出来事が起きて、彼への感謝がより深いものになった。
そのおかげで社会的欲求も満たされつつある。パートナーに求めるのは愛情を感じ合う関係だ。その愛情の感じ方に制限がなくなった。
以前は「彼は私をセフレ扱いしてる!愛してるならもっと時間つくってデートしてくれるはず!」みたいな認識を無意識に選んでいたからケンカをしていたけど、今は自分や相手の性欲を受け入れ、性行為を愛情だと認識できたことで愛情を受け取る間口が広がった。そうしたら、彼に深く愛されていたことに気づけた。
恋人は相変わらず忙しい人だけど、短い時間でも彼からの愛情をしっかり感じることができるのは、やはりベース部分の欲求をこつこつ満たしてきたからだと思う。
そしていま、承認欲求という壁にぶつかっている。承認欲求というのは悪者にされやすいが、社会的な生き物として他者と関わり合って生きていく以上、人間に必要なもの、というか備わっているものなのだ。
私はこれも否定してきた。だけど今朝ついに降参して、自分のなかにパートナーシップに関する承認欲求があることを認めた。私は彼に「かけがえのない存在」だと認識されたいし、周囲にもそれをわかってもらいたい。
今までは自分で理解していればいいやと思っていたけど、それは「承認欲求はダサいよ、悪いことだよ」と自分自身に制限をかけてお利口に振る舞うことを求めていただけ。もちろん他者の評価や他者の目を気にして認めてもらうための行動をとる必要はないし、そんなことをするつもりはない。だけど、私と彼のパートナーシップを認識されたいと願うことは人間として至って普通で普遍な欲求なのだと、やっと受け入れることができた。
とはいえ、このバランスは難しい。人に積極的に示すことでマウントをとりたいとかは明らかに承認欲求の暴走だけど、彼のそばに別の女性を寄せ付けたくないみたいな嫉妬の感情をどう扱って良いのかまだわかっていない。今後の向き合いどころだなと思う。
その上で自己実現という「パートナーと共に成し遂げたいこと」が出てくるのだろう。
今の私は子供が欲しいかどうかわからないけど、もしかしたら「かけがえのない存在と認められたい=結婚したい」という欲求を受け入れられた先に、彼と子育てしたいという願望が出てくるのかもしれないし、一緒に作品を作りたいみたいな今の私で思い浮かぶ欲求をまっすぐ望めるのかもしれない。
私と恋人には似ているところも多々あって、彼は承認欲求について否定的で、その欲を良くないものだと思っている節がある。それは他者の目や評価を意識しすぎること、つまり承認欲求に苦しめられているのかもしれないな、とふと思った。本当のところはわからないけれど。
なんのためにパートナーとしてこの人に出会ったのだろうと考えるとき、自分一人では乗り越えられないトラウマ的な出来事や、それによる欲望の否定や制限を乗り越えて成長するためかもしれない、と思う。他人は自分の鏡だとよく聞くけれど、恋人や夫のような存在はまさにそうだ。
私が承認欲求を乗り越えられたら、彼にも何かを渡せるだろうか。そんなことを考えている。