昨日、11月1日は新月だった。
最近はそんなに月の満ち欠けでメンタルが荒れることはなくなっていたのだけど、10月末から昨日にかけては割とネガティブになる日が多かった。
恋人とのケンカだけでなく、うちに泊まりに来ていた友達とも口論になった。相手の発言が自分を否定するもののように聞こえてしまったり、頭の中で自分責めや自己否定が起きるから、ケンカや言い争いが起こる。いつもより自分の神経が過敏で傷つきやすくなっていると感じる日々だった。
昨日の新月はさそり座新月(さそり座が司る黄道210度~240度の範囲で起こる新月)だった。
私は太陽星座がうお座、月星座はさそり座なので、特に強い影響を受けたのかなあなんて考えている。渇望、飢え、欲すること、一途に追い求めてしまうこと。そういう欲望が暴走しやすかったのかもしれない。
そういう渇望は「今まだ得られてない」と思うから欲するもので、要するに「まだ私のことをわかってもらってない」とか「私ばかり与えていて、もらっていない」というように、不満や不足が根底にあるのだ。だからこそ、本当は何が欲しいのかを明確にして、今すでに何を持っていて、その上で何を望んでいるのかを、自覚する必要があると思った。
昨日まで、恋人から何も連絡がない日々が続いていた。会えなくてもLINEでなんらかのやりとりを交わす日々が当たり前になっていたから、ケンカして、友人がうちに泊まったり私も仕事があったりで会う予定を立てられなくて、会話もない日々というものが、精神的に結構しんどかった。
昨日の朝なぞは「もう別の人を好きになれたらいいのにな」とか「彼の上位互換で面倒くさくない人と付き合いたいな」とか色々と頭に浮かんで、本当は何が欲しいのか、見失いかけていたと思う。
そんな日中を過ごした夜に、恋人から久々のLINEが届いた。タイミングがあわなくて昨夜は結局会えなかったけれど、会いたいと思ってくれていること、ケンカのあとで勇気がいっただろうに連絡してくれたことが、嬉しかった。
その嬉しさ、胸のじーんと温かくなる気持ち、湧いてくる愛しさが、私の本当の願いを思い出させてくれる。見失いそうになったら、頭ではなくて心が喜びを感じるものを選ぶことだなと改めて思った。
「自分の胸に聞いてみろ」とはよく言ったもんで、”本当のこと”を知っているのはいつだって頭じゃなくて心なのだろう。
うちに遊びに来ている友人は占いが好きなのもあって、月星座の欠損という話を教えてくれた。月星座は「本来の自分」や「一人でいるときの自分」という説があるけど、最近ではそうではなく、「幻想の自分」「本当はないのにあると思って追い求めている自分の要素」だと言われているらしい。
例えばさそり座の場合、太陽さそり座は「一途で執念深い、諦めない」「本質を見抜く洞察力」「神秘性や深遠さ」などの性質を持っていると言われる。ところが月星座の場合はその性質の成長が7歳までで止まるため、全く無いわけではないけど7歳児レベルで頭打ち状態なのだという。
なのに自分ではその性質があると思っている。だから、大人のふりをする子供よろしく、「本質を見抜いているふりをしている子供」「諦めないふりをしているけど本当は集中力がない子供」「神秘的な雰囲気をがんばって醸し出そうとしている中二病」みたいな状態らしい。
この月星座の欠損を乗り越えて、つまり「私にはこの要素はないか、頭打ちでもう育たない」と月星座の生き方を手放して、太陽星座の自分の要素を磨くと決めることが、「本来の自分」を生きることらしい。
そういう話を聞いてから、月さそり座の解説動画を見て、なるほどなあと思った。
多分、私はもう月星座の欠損を乗り越えている。完全にではないかもしれないけど。でも確かにさそり座要素が私にはあるようで無いなと認めているし、そう認めることが特に痛くない。
諦めが悪いけれどやりきる胆力や集中力もないこと、一途な人間というよりはアレもコレも好きだとよそ見しがちな人間であること、人の本質も深い部分にある思いも汲み取れなくて一人で暴走しやすかったり、人について考えていると疑心暗鬼になりやすかったりすること、全部認めていて、これが私だなあと思っている。
それは今年に入ってから「素直な自分で生きていく」と腹を決めたからかもしれないし、自分と向き合う日々を過ごすなかで、頭で考えることよりも心で欲するものを優先して選んできた結果なのかもしれない。
本来の私=太陽星座うお座の私は、矛盾と葛藤を抱えながらも楽しく生きている。さそり座的なダークな世界の住人ではなくて、綿あめみたいなふわふわした世界に生きている。実はすごく陽気。というか、陰気と陽気の区別があまりない。波にずっと揺られているから、陰気なときも陽気なときも1秒単位で入り乱れる混沌とした世界を生きている。(だから私はソーウツなのだと思う)
深刻な悩みごとにも生きる歓びを感じている私がどこか遠くにうっすらと居る。心を痛める出来事なんてこの世になければいいのにと思いながら、痛ましい状況に生きる人間の生を美しく感じてしまう。ある意味で博愛主義だけど、ある意味で無慈悲だと思う。共感性が高いのに人の苦しみに共感しきれない。その苦しみを感じることさえ生きているからで、そう思うと何もかもが尊い気持ちに代わってしまって、自分でもよくわからなくなってしまう。
そういえば、いつのまにか、私の世界からは「善/悪」が消えていた。人それぞれに真実がある。人それぞれに信じるものを貫けばいい。私は私の信じるもの、心が「好きだ」と叫ぶものを素直に選び続ける人生を送ることにした。
社会的に見たらアウト、グレーというかもう真っ黒、そんな状況だって私は「それでも好きだと思ったのだから仕方ない」と覚悟して進んでいる。
昔はそれを月星座さそり座的な一途さや諦めない強さだと思っていた。でもその要素は私に欠損しているのだという。それならこの一本気な気質は、自分の信念に素直に従ううお座の性質から生み出されているものかもしれない。
やっぱ好きなんだよね、うお座。でもこの世界観をまだうまく言葉にできていないと感じる。うお座の感覚をもっと的確に文章にできたらいいな。もっと文章力を磨きたい。混沌を、言葉にしたい。
(そういえばガルシア・マルケスはうお座らしい。ふと思い出した)