謎がとけたような感覚。
私は私の本音を隠すことが嫌だ。心が「これが欲しい」「これが好き」と叫んでいるのにその感覚をごまかしたりするのも嫌。好きなものを好きだと言える自分を誇りに思っていたい。
日曜日の喧嘩の前、ちょっとしたトラブルが恋人の身に起きた。私も関係することだったから罪悪感があったし、ストレスに苛まれている(と勝手に感じた)彼が可哀想に思えて、助けるためにと彼の提案に安易に乗っかった。(押し付けではなく私からその提案を「やるよ」と引き受けた)
たぶんその行為は、私の心が本当はやりたくないことだったのだと思う。表現に嘘を入れたくない。私の書く言葉に素直じゃないもの、まっすぐじゃないものを混ぜたくない(なぜか口で吐く言葉に嘘が混ざっていてもそれは気にならないが、書く言葉にそれが混ざっているのがすごく嫌だ)。
それなのに私は「彼を助けるために」という建前を用いて自分の表現のルールを曲げた。今日に至るまで彼に腹を立てているのは日曜日の喧嘩のせいではなく、この嘘をつくはめになったこと、というか、「嘘の表現をすると選んだ」自分自身に対してすごく腹を立てている。
改めて思うけど、状況を人為的にコントロールしようとしては駄目だ。
もちろん、諦めずに知恵と工夫で立ち向かう局面と、素直に身を任せた方がいい局面はある。今回の事件は直感的に「これは流れに乗ったほうがいい」と思ったのにそれを押し留めようとしてしまったから、無理をしていると気づかせるような蓄積した怒りの爆発が起きたのだと思う。
そもそも知恵と工夫が必要な局面ならそういう手段を自然にひらめいている。今回は本当に無理して文章を書いた。なかなか筆が進まなかったのは書きたくなかったからなんだな、と今わかった。(その直感を押し殺してでも文章を書ける才能があるのもそれはそれですごいんだけど)
どんなことでも必要があってその状況を迎えている。可哀想でもなんでもないし、罪悪感を覚える必要もないのだ。
うまくいかない状況に痛みや悲しみや怒りを感じても、それは自分が本当に欲しいと無意識に願っている未来に向かうための現状の崩壊であって、破壊と再生は必ずセットなのだと思う。そういえばインドの神の1柱シヴァも破壊と再生の両方を司る神だ。
私は運命論者とは言い切らないけど、でも何年もインドで生活して研究をしていた日々の中で、「神」という名前で呼ばれる何か大きな渦というのか流れのようなものが人を取り巻いていて、私たちのコントロールを超えて起こるべくして起こる何か(それを「運命」や「奇跡」と呼ぶのかもと思う)が存在するのだと感じることがあった。
宗教あるいは信仰と呼ばれるものがなぜ太古から世界各地で発生しているのかについて考察するとき、人の目には見えない何かの流れに触れたら自然な感覚としてそこに畏怖を覚えるからなのだろうと思う。
私は私の書きたいことを、心が望むことをこれからも書いていく。心が暗くなることはしない。だから書くことに嘘を入れない。そして、誰かを攻撃するために文章を使わない。私の言葉たちを凶器にはしない。
今まで以上に自分の心に素直に生きて、それを文章にして発信して、これを読んでくれているあなたに届けたい。
そんな私の文章を読んで、もし悲しくなったり怒りを覚えたりするなら、私にもまだ未熟さはあるからブラッシュアップしていくけど、でも、あなたの心が本当は何を望んでいるのか自分自身と対話してあげてほしい。自分の現状が心底幸せでわくわくするものなら、そもそも他人に対してネガティブな感情は湧かないから。
そして、感じた悲しみや怒りをあなたの未来を良くするためのヒントにして昇華してあげてほしい。どんな感情も邪険に扱わないでほしい。
破壊と再生は必ずセット。安定の崩壊は今よりも欲しい未来を選ぶために訪れてくれている。そう信じて一緒に前へ進みましょう。