今日の日中は何もしない、というか何も計画を立てないぞ、と数日前から決めていた。夜には人に会う予定があるけど日中には何も予定をいれず、仕事をしたいと思えばすればいいし、研究したいと思えばすればいい、料理や家事をしたいと思えばすればいいし、やる気が起きないなら別にやらなくて良い、と自分をフリーにしていた。
その結果、私は畳に転がってダラダラしたり、YouTubeを見たり、所ジョージについて考えたり、「こういうことをしました」と一言ではまとめられない自由な時間を過ごした。昼食は冷蔵庫にあった作り置きを消化したので料理もしていない。
おかげでなんだかすごく元気。
いや、もしかしたら一人で何も決めずに過ごす時間というものに少し飽きたのかも。夕方、約束の店に向かうために家を出たら夕暮れの空が美しく、じーんときた。一人で家にこもりっぱなしで1日を終えるのは嫌だったのかもしれない。だからだろうか、人と会っておしゃべりしながら飲んだ夜の時間がいつも以上に楽しかった。たまにこういうリフレッシュデーを設けるのもいいな、と思う。

夜に飲みに行ったのは、かつて通っていたバーのマスターから飲もうよとお誘いをもらったから。70歳を越えてまだまだ元気な方なのだ。
嬉しいなあ。私の好きな人が私と一緒に飲みたいと思ってくれている、という状態が単純に嬉しいし、元気そうに楽しそうにお酒を飲むマスターを見て尚更嬉しくなる。バーは閉店してしまったけど、その店の好きな常連さんたちはまだこの街に残って日々飲んでいて、マスターともまだ飲める機会があって、ありがたい。

その店で夫の愚痴を言いにくる(だが夫には言えず態度にも出さないらしい)女性の話を聞いて、自分で自分の人生を選んで作っているという実感をもてないとつらいだろうなと思った。
人は「見知った不幸」と「見知らぬ幸せ」だと見知った不幸をつい選んでしまう、といつかの記事にも書いた気がする。脳の機能として恒常性(ホメオスタシス)があり、生存のために環境維持を無意識的に優先してしまうからだと聞いたことがある。
きっと彼女は「やさしい」のだろうけど(というか繊細なのだろうけど)、その「やさしさ」は愛ではない。自分の心をすり減らし、そのすり減った心で接する人間のこともやがてすり減らしていく。愚痴を聞く店主の目は醒めた色をしている。
人と向き合うことがどんなに怖くても、自分を幸せにしてあげる選択をできるのは自分だけなのだから、どうか勇気を出せますように。周りから人がいなくなる前に、早く気がつけますように。そう伝え、あとは祈るばかり。
