帰省して日々のんびり田舎暮らしを楽しんでいる。散歩にもよく出かけ、5キロくらいのウォーキングが日課になりつつある。
実家で親と共に過ごすなかで、例えばイライラしたり胸がざわっとしたり、と一人暮らしよりも感情の動きを感じることが多くて面白い。
感情の揺れ動きは自分の内面にある無意識な思い込み(「こうあるべき」とか「こう思われているに違いない」とか)を内省するチャンスだから、論文を書き進める時間をたっぷり確保できるだけじゃなく、自分自身のアップデートにもたっぷり向き合えてありがたい。
昨日は母親の持病(メニエール病)が悪化して一日苦しそうにしていた。台風前の気圧変化にやられたのか、親族からひっきりなしに掛かってくる電話のストレスのせいか、とにかく休んでいてほしかったので昼食は私が作った。
この調理のために久しぶりに実家の台所に立ち、そして、めちゃくちゃイライラした。みりんがない、砂糖の詰め替えが放置されている、ごま油が空になっている、など、私が一人暮らしの家で当然のように使っている基本調味料が整っていなくて不便なのだ。そして冷蔵庫のなかには既製品のドレッシングやタレ、レトルト系の食品がずらり。賞味期限の切れているものも多い。コンロの周りは油でべとべとで、琺瑯の美しいケトルには埃が積もっていた。
言葉を選ばずに、母の状況を考慮せずに、率直に第一印象として頭に浮かんだ言葉は「だらしない」だった。「この人は生活を大切にしていないな」と思った。
もちろんそれは全て私の生活スタイルを基準にした言葉で、私の思い込みが反映されている。だからこれを母に言うことはない。だけど母を「だらしない」と思ってしまうことを以前のように抑圧することもしない。頭の中や心の中は自由でいい。思うことに制限を掛けなくていい。
そうやって自分の中で苛立ちや愚痴を受容していると、ふと、「でも母は毎日ずっと何十年も2人以上の人間に食事を作る生活をしてきて、疲れていたり、自分の味付けに飽きたりして、新鮮さを求めて既製品を買っているのかもな」と頭に浮かんできた。
何にトキメキやわくわくを感じるか。それは人それぞれだから、私が干渉する必要のないことなのだ。ただ私は既製品ばかりの味付けや食卓が好みじゃない(作っていて楽しくない)と感じるから、私が料理を担当する日は基本の調味料を使ってごはんを作ろう。ごま油もみりんも自分で買ってこよう。これは私の心地よさのためであって、母に「今日から基本調味料で料理せよ、そちらのほうがわくわくするはずだ」と押し付けるものではない。
その昼食作りを経て夜、夕飯のあとに母とお喋りしていたら、人付き合いにおいて心地よさを感じる他人との距離感が私と母で全く異なっていることにも気がついた。
そしてやっと心の底から「私と母は別の人間で、すべての感覚や感情を完全に同じように感じあうことはできないんだ」と理解した。腑に落ちた、と言っていい。知識としては理解していた「別々の人間である」「人それぞれである」という言葉がやっとストンと自分の中にはまった。
私と母の仲はいいほうだし、母が好きだし、母と過ごしている時間を楽だなーと思う。それでも私と母は別々の人間で、完全に分かち合うことができない「感じ方」をそれぞれにもっている。
それは肯定的な諦めだった。寂しさがまだ少しうずくけど、でも「別々の人間だ」と認めると、自分の心や体がふっと軽くなった感じがする。それが答えなんだと思う。私はずっと「母と全て分かり合わねば」と自分に課していたんだ。
そして、私たちは別々の人間なんだと心底理解できたからこそ、今の私は母の感じ方や考え方を尊重したいと心から思えている。
思えば、両親は私のことをこれまでたくさん尊重してくれていた。もうたくさん理解してもらってきた(分かり合えないな、変な奴だなと感じる部分を矯正せず「変な奴だな」と留め置いてくれたことも含めて、私を理解=尊重してきてくれたと思う)。
今度は私が母や父を理解して尊重する番なんだな。今までずっと気づかなくて、ごめんなさい。
みな別々の人間なんだと尊重し、理解できない部分をそのまま「理解できないがこの人はこれが好きなんだな」とわかってあげること。それは両親に限らず、友人にも恋人にもソウルメイトにすらも言えることで、だからこそ私は人との共通点や相違点を探すことが楽しくて好きで、一致するとわくわくして、異なれば新しい見方にうなるのだ。
これを本当の「親離れ」と呼びたい。
ずいぶん時間がかかった。もっと早くても良かったろうに。でも今、とても嬉しい。新しい視点で自分の父と母を見ることができて、すごくすごく嬉しい。