百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

8月6日(火) 祈りと無関心

バングラデシュが荒れている。

元々は建国闘争(パキスタンからの独立)に貢献した英雄たちの子孫に対する公務員職の優遇枠を縮小するよう求める学生運動から始まったという。それが今では数百人にのぼる犠牲者を出し、政権は崩壊し、治安維持のため取り急ぎ軍部が暫定政権を始めるに至った。

事態を文字にまとめることは簡単だが、そこからは人々の痛み、混乱、困惑、歓喜、熱狂といった温度のある部分は削ぎ落とされる。だからこそもっと報道されてほしいのに、日本では株価のほうが注目の的らしい。(それはそれで、損を出した皆さん大変でしたなあと思うのだけど)

 

私だって詳しいわけではないから、なにやら知ってる風にブログ記事を書いている場合じゃない。もっと知らなくてはと思う。マイノリティーや経済的に周縁化された人々をめぐる留保枠についてはインドでしょっちゅう話題になるが、隣国のバングラデシュでそういう優遇措置的な枠があることすら初めて知った。

もっと意識を向けようと思う。報道されていないことを言い訳にするのではなく。

 

田中雅一先生の、ナンバリングとカウンティングの議論を思い出す。アーカイブや死の記録と私たちはいかに向き合うべきなのか。

人がたくさん死んでいても、それが「数」としてカウントされ、「顔」が見えてこないこと。その関心/無関心の線引きに気づくとき、いつもぞっとする。まだ観ていないが、映画『関心領域』はそういう話だと聞いている。私は誰のことを「数」として捉え、誰のことを「人」として捉えているだろうか。自省する、きっといつまでも。

原爆が落とされて79年。毎年恒例になっている犠牲者名簿の風干しは、犠牲者ひとりひとりが名前のある生きた人間だったことを世界に知らしめ、その名を残し続けることで人の命を奪うあらゆる行為に対抗するイベントのように思う。(日本が加害者として奪ってきた命も、現在進行形で奪われ続けているパレスチナウクライナの命たちも)

今日のような平和記念式典も大切だと思うが、あの名簿は原爆の恐怖とやるせなさを最もわかりやすい形で突きつける。

 

そんなことを、しかし今日一日ずっと考えていたわけでもない。

昨日の高尾山登山で足腰が筋肉痛になり、動くたびに「あの下山は負担がかかったな」と思い出したりする。バングラデシュを思い出しても、次の瞬間には山頂で飲んだコーヒーのおいしさを思い出したりする。眠くてうとうとしたりもする。

 

ほんの少しの時間でいいんだと、勝手に思うことにしている。

苦しんでいる誰かのために祈り続けなくても、いっときでも祈り、思いを馳せる時間があれば、百点満点だ。

そう思うようにして、自分のもつ「無関心さ」を責めそうになる自分を慰めている。

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