百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々

2月28日 生誕32周年

何十年か前の今日生まれた。

めでたい日。

 

父から誕生日を祝うメールが来たことに驚いた。初めてのことだ。

父との親子仲は非常に悪かった、というかあまりにも離れて暮らしていた時間が長すぎてお互いにどう接していいかわからず、父は私を否定するような発言をたびたびしたし、私は父の考えも知らず怒って口も聞かなかった。

 

父と母は私が小学校低学年の頃からほとんど別に生活していて、週末にときどき父と顔を合わせるくらいだった。

平日の深夜に家にいることもあったけど、そういう日はだいたい母と大喧嘩になり、夜中に母に叩き起こされて母方の実家に泊まったこともあった。覚えてないのだけど母曰く、小2の私は勉強机の下にナップザックを準備していて、夜中に起こされてもすぐ出かけられるので楽だったらしい。

そんな家族なのに夏休みには家族みんなで旅行に行くことが決まっていた。何も知らない小学生の頃は楽しかったけど、中学生の頃から居心地の悪いものになり、私だけ家に留守番するようになった。初めて私が「行かない」と言った年は弟に泣きながら説得されたこともあった。

 

父と母がいつ和解したのか知らない。私が大学生のときも父は家にいなかったから。

大学院生になると研究室や恋人の家に泊まり込むことが増えて、家にはときどき服を取りに戻るくらいだった。その頃には父も家に住んでいたかもしれないが、やっぱりほとんど会わなかったし、もう顔を合わせても共通の話題がなかった。

そもそも父は私が大学院に進むことに反対していた。仕方ないので学費は祖父と奨学金団体から借りた。この頃から私は意識的に父を避けるようにしていたのかもしれない。

 

3年前、結婚することになって、父と母のところに挨拶に行った。

父はそのさらに数年前に仕事をほとんど引退して山の中に家を構え、憧れだったという山の中での自由な暮らしを謳歌していた。母はその父の買った山小屋のような家と埼玉の元々の家を行ったり来たりする生活が続いていたけど、埼玉の実家を引き払って父の暮らす山小屋に引っ越したばかりだ。

数年ぶり、もしかしたら数十年ぶりにきちんと正面に見据えて会話した父は、老けていた。

母にはしょっちゅう会っていたけど、こうやって父をまじまじと見るのは本当に何年ぶりなのだろう、私はどうしてこの人に向き合ってこなかったのだろう、この人はもう老人で、何かあれば死んでしまってもおかしくないのに。

 

結婚して、そのあと離婚もした。

父はどちらも何か小言を言ったり文句を言ったりすることなく、黙って証人欄にサインするだけだった。

肯定も否定もせず、「あなたの決めたことをやりなさい」とだけ言った。

それはいつも母から言われていたと思っていたことで、たぶん実際に母がそう言っていたと思うが、もしかしたら私の記憶の中では父がそう言った場面も母に置き換えられていたのかもしれないと思った。

 

去年書いた論文を学内紀要に載せてもらったので、その冊子をこのあいだ父に送った。

父は時間をかけてその論文を読んでくれたらしい。誕生日のお祝いメッセージに、論文の感想が添えられていた。

とてもとても嬉しい誕生日だった。

 

f:id:bharatiiya:20210309140154j:image

 

◼️Twitter

 

◼️写真

f:id:bharatiiya:20210309140326j:image
f:id:bharatiiya:20210309140323j:image
f:id:bharatiiya:20210309140335j:image
f:id:bharatiiya:20210309140330j:image
f:id:bharatiiya:20210309140339j:image
f:id:bharatiiya:20210309140343j:image