百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々

ある朝目が覚めて世界が一変していたことなどない

私が3月末提出の論文でひいひい言って家に閉じこもっていたあいだに、屋外では新型コロナウイルスの感染者が増え、今日までに非常事態宣言が発令されるほどの事態に至ってしまっていた。

 

でも、この宣言は突然発令されねばならなくなったのではない。

国内での感染者数は徐々に増えていったのだし、世界に目を向ければ3月中旬の、私がゼリエースを作っていた頃にはヨーロッパですでに流行の兆しが見えていた。

グローバル化というのだから疫病もグローバルなのだ。何も対策をとらなければ、海外で流行って日本で流行らないなんて不自然なことが起こるわけない。

 

地震や噴火のような天災は突然やってくる。3.11のときに嫌というほど思い知らされた。でも、だからこそ地震で突然建物が崩壊しないようにと耐震基準を決めて私たちは現状を維持しようとする。地震がくる数秒前に鳴るアラームを開発もする。目が覚めたら地震が起きていて世界が崩壊していたということを防ぐために。

こうやって被害の規模は普段の対策である程度軽減できるのだし、被害を長引かせないよう政策を打つこともできる。逆に言えば被害が甚大で長引いているのだとしたら、私たちの「普段」や「政策」に何か欠陥があるということだ。

 

ウイルスは、徐々に感染者が増える状況からして、地震よりも噴火よりももっと対策がとりやすいんじゃないのかと思っていた。

でも現実は、いまだに国内感染者が増え続けている。3月末に、都内での感染者の半分以上が感染経路を追えないと都知事が会見を開いたとき、ああこれはまずいことになるなと思った。

それなのに、次の日起きても相変わらずの日常が続いていた。この時ばかりは目が覚めたら世界が変わっていたほうが、外を歩く人が極端に減った世界になっていたほうが、良かったのにと思う。

 

茹でられるカエルの話を思い出した。

徐々に水から湯へと変わっていく鍋の中で気づかずに茹でられるカエル。

世界が一変するのは嫌だと今まで思っていたけれど、徐々に崩壊していくほうが良いわけでもないのだ。いや、そのほうがむしろ恐ろしいかもしれないとすら思う。