百年の一日

インドとお酒に溺れている岡本の日々 (web→ https://lit.link/okapindia)

11月17日(日) 残り1ヶ月半

今日は知人のライブを見に出掛けて、飲みすぎたなあってくらいに酒を飲んで帰宅。おつまみも酒も音楽もすべて素敵な空間だった。

私が高校生くらいだったら好きでたまらなかっただろうなあという当時の憧れの空気感を身にまとっている知人も来ていて、個人的にわくわく嬉しいイベントだった。

(写真は酔っ払ってぶれぶれになったポテサラ)

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最近ずっとZINEの原稿のために椅子に座って原稿を書き続けているせいで腰痛が再発している。ライブの途中にも腰が張って痛かったので何度も立ち上がったり屈伸したりしていた。途中で立ち上がると視線を集めてしまう。舞台への集中を途切れさせてしまって申し訳なかった。この腰痛、早くどうにかしたい。

 

もう年末の予定が見えてきて、来年についても考え始める時期なんだなあと、今日みんなと話していて実感した。

いろいろすっきり片付けて良い年明けを迎えよう。気になるモヤモヤは今年のうちに。あなたも私もみなさんも。とにかく残り1ヶ月半を駆け抜けていきましょう。えいえいおー。

11月16日(土) ほめほめ

昨日はふらっと陣馬山に登山に行った。最近キャンプしたいなと思っていくつかギアを買ったので、それを試しに行ったのだ。急登を下るのが大変だったけど、それ以外は行きも帰りも万事良くて大変満足。突然な計画だったけどよく出来ました。

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家の近くにワークマンがあるおかげで初の晩秋登山ながらウェアの温度調整に困ることはなく、東京の西に近いこの町なら高尾や奥多摩のような山のある場所にも簡単に行ける。つくづく自分の住環境は恵まれているなあ。それに、私は自分に合っているものや場所を見つけるのがうまいと思う。すごい。えらい。

 

自分で自分のことをもっと褒めよう、とお世話になっているカウンセラーさんから先日アドバイスをもらった。自分褒めは比較的しているほうだと思ったけど、それはレベルの高い何かをこなしたとき、自分が喜べたとき、誰かに貢献できたとき、なんて風に機会を限定していたかもしれないと気づく。もっと普通のこと、当たり前だと感じてしまうことでも自分を褒めていいんですよ、と言われて衝撃だった。

たとえばこの町に住んでいること。この町を選んだ自分を褒めていい。朝起きられたこと。ゆっくり眠れたこと。全部褒めていい。

推しが息吸ってるだけで尊い、今日も生きててありがとう、という感覚を自分自身に向けられたら、他人にももっと優しい気持ちで接することができるし世界は平和になるという。一理あるな、と思った私は先日から何かにつけて自分を褒めるようにした。
今までだったら陣馬山のような低山に登れてすごいなんて思わなかったかもしれない。でも今の私は山に登り切って怪我なく下山できたことだけじゃなくて、計画立てたことも必要な装備を揃えてあげたこともギアを使いに行こうと思いついたことさえも、すべてえらい、すごい、と自分褒めしている。「褒める」ってなんにもデメリットない最強の行為かもしれない。

今日もブログ書いた私えらいすごいかわいい天才。ZINE原稿もがんばるぞ。

 

11月13日(水) 衝動ではしる

ここ数日、なんかスイッチの入らない感覚の日々だった。今日の朝までそんな感覚で、胸の奥はすーすーしていた。

私には「こう在りたい」という未来の自分の姿がある。その未来に旗を立てて現在からそこに走っていくというか、あるいは未来の「こう在りたい」から逆算のような形で現在があるのかもしれないけど、とにかく未来の欲しいものや欲しい在り方がいつもあるし、そこに向けて今の生活を過ごしている感覚がある。(このへんの話を坂口恭平が今年出した本で書いていてビックリした。坂口恭平のファンなのでなんだか嬉しい)

 

私が未来に向けて走るときの動力は「衝動」だと思う。「これが好きなんだ!!」という情熱というのか、いや、好きという次元じゃない、やらねばならぬ、居ても立っても居られない、というまさに衝動。それに出会ってしまったからには命が尽きるまで作り続け、表現し続けなくては。より良い表現を探して生み出さなくてはという、使命感にも近い感覚。その衝動が流れてる時の胸の奥は熱くて、マグマの川のよう。そこに触れるといつでも感動や感謝で涙が出てくる。

変な例えばかり用いてまたふわふわ魚座のふわふわ説明が続いてるよ、と我ながら思うけど、ソウルメイト(仮)や恋人にこの感覚を説明したら分かってもらえたので、伝わる人には伝わる感覚なのだと思う。

 

だけど時々、心がもやもやして動けなくなる期間がある。ソーウツな私のやや鬱期間である。体は元気だし眠れるし食べれるけど、胸の奥がすーすーする。衝動がない。ときめきがない。心が動いてない感じ。

そういう心の状態なのに無理して未来の自分に近づこうとすると大抵は事故るということをこの数年でよく学んだので、心が止まってるときは頭や体もなるべく動かさないようにしている。と言いつつも人間はそんなに単純じゃない。やっぱり頭は勝手に働く。そして勝手にめちゃくちゃ焦り、めちゃくちゃに自分を追い立てる。

 

もうすぐ文学フリマなのに原稿進んでないよ?!いいの?!書けないの?!文章しかないとかインドが好きとか言っておきながら書けないの?!無理にでも書けや手を動かせや!てか博論は?進んでないよね?書かないの?調査に協力してくれたみんなのために書きたいんでしょ?おら手を動かせや!!てか翻訳は?仕事として引き受けたんでしょ?おいこら(以下略。

 

みたいな声がはっきりと聞こえればまだ「あ、自分責めしてるな、やーめよ」と思えるのだけど、当たり前のように頭の中にある自己否定の観念は見慣れすぎていてなかなか気づけない。今朝まで自分を責めたてながら無理やり未来の目標に自分を動かそうとしていたことに気づかなかった。

 

これは私の傾向だけど、自分責めがひどいときは他人や周囲に感謝できなくなる。今朝、「最近いろんなことに対して心からありがとうって思えてないな」と感じたことで、息を吸うようにナチュラルに自己否定していたことに気がつけた。そこに気づいたら、あとはやめるだけ。(私の自己否定のやめ方はかなりクセがあって書いたら長くなりそうなので割愛)

 

そうやって自己否定に気づいたあと、なんとなく過去の自分のインスタの投稿を見ていたら、ある投稿の文章を読んでバチンっと心のスイッチが入った。

そうだった。スポットライトを避けながら誰も気づいてくれないと文句を言うのをやめると決めたのだった。私は自分の素直な感覚や正直な本音を隠すのをやめると決めたのだ。自分も表舞台に立つ覚悟と決意をしたのだ。

数日ぶりの沸々と湧いてくる感覚に「これこれこれー!」と駆け出したくなる。ありがたい。これでまた進める。というか、足が勝手に走り出していく。

12月1日の文学フリマにむけて、新刊を準備しようと思います。がんばるぞ。

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11月12日(火) 引き出しがまた増えた

ばたばたの日々が続く。

先週、実家が火事になった。うちは標高の高い寒いとこにあるので薪ストーブを使っているのだが、その灰の不始末が原因で灯油に火がついてえらいことになってしまったのだった。幸いにも両親、犬、猫、すべて無事。家も半焼で済んだし、屋根裏まで火が回ったのに全焼しなかったのは奇跡とまで言われた。

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それでも火事は火事なので、家中が焼けこげた匂いと壁紙など化学物質の溶けたような匂いに包まれていて気分が悪くなるし、電気は使えないし、お風呂にも入れない。トイレはかろうじて使えるようにしたけれど、とてもじゃないが住めないので、近くの貸別荘を借りてそこから通いで家を片付けに行く生活となった。

そんなわけで私と弟もしばらく実家に帰って家の片付けや諸々の手続きを手伝っていたが、その火事を発端に父と母が離婚前提での別居を始めることになり、それでさらにばたばたした。

 

離婚する理由はお互いへの不信感が決定的なものになったことだった。

母は懸命に消火活動をしたが、灯油に引火して火の手が上がる家を父は呆けたように口を開けて見ているばかりだったらしい。そもそも火災の原因は父がストーブの燃えかすに水をかけるのを忘れたから。母は火を前にかなり恐怖して、それでもやらねばと体を動かし続けたのに、父は原因を作ったどころかその後に母を守ることさえしてくれなかったと。父にもストレスがあるだろうからと言いたいことを我慢していたが、もうそれも限界を迎えたそうだ。

 

父にも言い分がある。父がどんな状況にあっても母は話を聞こうとしてくれないし、責めるような言い方や態度がキツいらしい。二人はなにかを話し合いで決めることをしてこなかった。どちらかが一方的に決めるばかり。父の性格的に、人に心を開いたり頼ったりするのが苦手というのもある。その性格を母には理解していてほしかったのかもしれないが、母は父に「変われ」と言うばかり。父いわく、もう一緒にいるのがしんどいのだと。

 

私は、寂しいけれど離婚してもいいと思っている。そもそも離婚が悪いとも思っていないし。どんな経験にも良い/悪いなんてなくて、自分がその経験をどう捉えるか、その経験をあとの人生にどう活かしていくか、しかない。

ただひたすら、父にも母にも幸せになってほしいと願ってる。

幸せとは、自分らしく、我慢せず、日々の些細なことにも楽しさや喜びを感じて生きることだと思う。

二人が一緒にいないほうが今よりももっと幸せを感じられるのなら、娘の私が望むのは何よりも親の幸せなのだから、離婚したって全然良い。というか、幸せになるためのステップとしての離婚であってほしい。

 

もちろん寂しさもすごくある。一人で部屋に戻ってたくさん泣いた。でもその寂しさや、家族の形が変わるという経験をすることで、私はまた一つ人生の奥深さを知って生きていけるんだろうとフラットに感じてもいる。私の中に引き出しが一つ増えるだけ。あとは私がその引き出しをどう使うか、経験をどう意味づけるかに全てかかっている。

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二人のパートナーシップのあり方からも良い学びを得た。私も無意識に我慢していたと気づけたのだ。たくさんの「〜せねば」が私の頭に浮かんでくる。これ全て「我慢」だな。

その我慢を減らして、人を信頼することや頼ることを増やしていきたい。心のままに自由に、ある意味わがままに生きることを自分にもっと許可していきたい。その心地よさを好きな人にも味わってほしいと思うから、相手の自由な振る舞いを心の底から許せるようになるのだと思う。自分の心地よさを大切にしながら相手の自由や心地よさを尊重できることが「思いやり」なのでしょう。

とにかく私は我慢しているものをどんどんやめていこうと決めた。

大好きな両親だからこそ二人の幸せを願うし、二人から教えてもらったことを活かして自分のことも幸せにしよう。

 

そんなことを手紙にして両親に送った。父も母もそれぞれLINEで返事をくれた。どちらも返信内容は似ていて、別々に暮らしていてもやはり私の親なのだなと思ってクスッとした。

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11月2日(土) 新月とか月星座の欠損とか

昨日、11月1日は新月だった。
最近はそんなに月の満ち欠けでメンタルが荒れることはなくなっていたのだけど、10月末から昨日にかけては割とネガティブになる日が多かった。

恋人とのケンカだけでなく、うちに泊まりに来ていた友達とも口論になった。相手の発言が自分を否定するもののように聞こえてしまったり、頭の中で自分責めや自己否定が起きるから、ケンカや言い争いが起こる。いつもより自分の神経が過敏で傷つきやすくなっていると感じる日々だった。

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昨日の新月はさそり座新月(さそり座が司る黄道210度~240度の範囲で起こる新月)だった。

私は太陽星座がうお座、月星座はさそり座なので、特に強い影響を受けたのかなあなんて考えている。渇望、飢え、欲すること、一途に追い求めてしまうこと。そういう欲望が暴走しやすかったのかもしれない。

そういう渇望は「今まだ得られてない」と思うから欲するもので、要するに「まだ私のことをわかってもらってない」とか「私ばかり与えていて、もらっていない」というように、不満や不足が根底にあるのだ。だからこそ、本当は何が欲しいのかを明確にして、今すでに何を持っていて、その上で何を望んでいるのかを、自覚する必要があると思った。

 

昨日まで、恋人から何も連絡がない日々が続いていた。会えなくてもLINEでなんらかのやりとりを交わす日々が当たり前になっていたから、ケンカして、友人がうちに泊まったり私も仕事があったりで会う予定を立てられなくて、会話もない日々というものが、精神的に結構しんどかった。

昨日の朝なぞは「もう別の人を好きになれたらいいのにな」とか「彼の上位互換で面倒くさくない人と付き合いたいな」とか色々と頭に浮かんで、本当は何が欲しいのか、見失いかけていたと思う。

そんな日中を過ごした夜に、恋人から久々のLINEが届いた。タイミングがあわなくて昨夜は結局会えなかったけれど、会いたいと思ってくれていること、ケンカのあとで勇気がいっただろうに連絡してくれたことが、嬉しかった。

その嬉しさ、胸のじーんと温かくなる気持ち、湧いてくる愛しさが、私の本当の願いを思い出させてくれる。見失いそうになったら、頭ではなくて心が喜びを感じるものを選ぶことだなと改めて思った。
「自分の胸に聞いてみろ」とはよく言ったもんで、”本当のこと”を知っているのはいつだって頭じゃなくて心なのだろう。

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うちに遊びに来ている友人は占いが好きなのもあって、月星座の欠損という話を教えてくれた。月星座は「本来の自分」や「一人でいるときの自分」という説があるけど、最近ではそうではなく、「幻想の自分」「本当はないのにあると思って追い求めている自分の要素」だと言われているらしい。

例えばさそり座の場合、太陽さそり座は「一途で執念深い、諦めない」「本質を見抜く洞察力」「神秘性や深遠さ」などの性質を持っていると言われる。ところが月星座の場合はその性質の成長が7歳までで止まるため、全く無いわけではないけど7歳児レベルで頭打ち状態なのだという。
なのに自分ではその性質があると思っている。だから、大人のふりをする子供よろしく、「本質を見抜いているふりをしている子供」「諦めないふりをしているけど本当は集中力がない子供」「神秘的な雰囲気をがんばって醸し出そうとしている中二病」みたいな状態らしい。

この月星座の欠損を乗り越えて、つまり「私にはこの要素はないか、頭打ちでもう育たない」と月星座の生き方を手放して、太陽星座の自分の要素を磨くと決めることが、「本来の自分」を生きることらしい。

 

そういう話を聞いてから、月さそり座の解説動画を見て、なるほどなあと思った。

多分、私はもう月星座の欠損を乗り越えている。完全にではないかもしれないけど。でも確かにさそり座要素が私にはあるようで無いなと認めているし、そう認めることが特に痛くない。
諦めが悪いけれどやりきる胆力や集中力もないこと、一途な人間というよりはアレもコレも好きだとよそ見しがちな人間であること、人の本質も深い部分にある思いも汲み取れなくて一人で暴走しやすかったり、人について考えていると疑心暗鬼になりやすかったりすること、全部認めていて、これが私だなあと思っている。

それは今年に入ってから「素直な自分で生きていく」と腹を決めたからかもしれないし、自分と向き合う日々を過ごすなかで、頭で考えることよりも心で欲するものを優先して選んできた結果なのかもしれない。

 

本来の私=太陽星座うお座の私は、矛盾と葛藤を抱えながらも楽しく生きている。さそり座的なダークな世界の住人ではなくて、綿あめみたいなふわふわした世界に生きている。実はすごく陽気。というか、陰気と陽気の区別があまりない。波にずっと揺られているから、陰気なときも陽気なときも1秒単位で入り乱れる混沌とした世界を生きている。(だから私はソーウツなのだと思う)

深刻な悩みごとにも生きる歓びを感じている私がどこか遠くにうっすらと居る。心を痛める出来事なんてこの世になければいいのにと思いながら、痛ましい状況に生きる人間の生を美しく感じてしまう。ある意味で博愛主義だけど、ある意味で無慈悲だと思う。共感性が高いのに人の苦しみに共感しきれない。その苦しみを感じることさえ生きているからで、そう思うと何もかもが尊い気持ちに代わってしまって、自分でもよくわからなくなってしまう。

 

そういえば、いつのまにか、私の世界からは「善/悪」が消えていた。人それぞれに真実がある。人それぞれに信じるものを貫けばいい。私は私の信じるもの、心が「好きだ」と叫ぶものを素直に選び続ける人生を送ることにした。
社会的に見たらアウト、グレーというかもう真っ黒、そんな状況だって私は「それでも好きだと思ったのだから仕方ない」と覚悟して進んでいる。
昔はそれを月星座さそり座的な一途さや諦めない強さだと思っていた。でもその要素は私に欠損しているのだという。それならこの一本気な気質は、自分の信念に素直に従ううお座の性質から生み出されているものかもしれない。

 

やっぱ好きなんだよね、うお座。でもこの世界観をまだうまく言葉にできていないと感じる。うお座の感覚をもっと的確に文章にできたらいいな。もっと文章力を磨きたい。混沌を、言葉にしたい。
(そういえばガルシア・マルケスうお座らしい。ふと思い出した)

10月30日(水) 嫌だったんだね

謎がとけたような感覚。

私は私の本音を隠すことが嫌だ。心が「これが欲しい」「これが好き」と叫んでいるのにその感覚をごまかしたりするのも嫌。好きなものを好きだと言える自分を誇りに思っていたい。

 

日曜日の喧嘩の前、ちょっとしたトラブルが恋人の身に起きた。私も関係することだったから罪悪感があったし、ストレスに苛まれている(と勝手に感じた)彼が可哀想に思えて、助けるためにと彼の提案に安易に乗っかった。(押し付けではなく私からその提案を「やるよ」と引き受けた)

たぶんその行為は、私の心が本当はやりたくないことだったのだと思う。表現に嘘を入れたくない。私の書く言葉に素直じゃないもの、まっすぐじゃないものを混ぜたくない(なぜか口で吐く言葉に嘘が混ざっていてもそれは気にならないが、書く言葉にそれが混ざっているのがすごく嫌だ)。

それなのに私は「彼を助けるために」という建前を用いて自分の表現のルールを曲げた。今日に至るまで彼に腹を立てているのは日曜日の喧嘩のせいではなく、この嘘をつくはめになったこと、というか、「嘘の表現をすると選んだ」自分自身に対してすごく腹を立てている。

 

改めて思うけど、状況を人為的にコントロールしようとしては駄目だ。

もちろん、諦めずに知恵と工夫で立ち向かう局面と、素直に身を任せた方がいい局面はある。今回の事件は直感的に「これは流れに乗ったほうがいい」と思ったのにそれを押し留めようとしてしまったから、無理をしていると気づかせるような蓄積した怒りの爆発が起きたのだと思う。

そもそも知恵と工夫が必要な局面ならそういう手段を自然にひらめいている。今回は本当に無理して文章を書いた。なかなか筆が進まなかったのは書きたくなかったからなんだな、と今わかった。(その直感を押し殺してでも文章を書ける才能があるのもそれはそれですごいんだけど)

 

どんなことでも必要があってその状況を迎えている。可哀想でもなんでもないし、罪悪感を覚える必要もないのだ。

うまくいかない状況に痛みや悲しみや怒りを感じても、それは自分が本当に欲しいと無意識に願っている未来に向かうための現状の崩壊であって、破壊と再生は必ずセットなのだと思う。そういえばインドの神の1柱シヴァも破壊と再生の両方を司る神だ。

 

私は運命論者とは言い切らないけど、でも何年もインドで生活して研究をしていた日々の中で、「神」という名前で呼ばれる何か大きな渦というのか流れのようなものが人を取り巻いていて、私たちのコントロールを超えて起こるべくして起こる何か(それを「運命」や「奇跡」と呼ぶのかもと思う)が存在するのだと感じることがあった。

宗教あるいは信仰と呼ばれるものがなぜ太古から世界各地で発生しているのかについて考察するとき、人の目には見えない何かの流れに触れたら自然な感覚としてそこに畏怖を覚えるからなのだろうと思う。

 

私は私の書きたいことを、心が望むことをこれからも書いていく。心が暗くなることはしない。だから書くことに嘘を入れない。そして、誰かを攻撃するために文章を使わない。私の言葉たちを凶器にはしない。

今まで以上に自分の心に素直に生きて、それを文章にして発信して、これを読んでくれているあなたに届けたい。

 

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そんな私の文章を読んで、もし悲しくなったり怒りを覚えたりするなら、私にもまだ未熟さはあるからブラッシュアップしていくけど、でも、あなたの心が本当は何を望んでいるのか自分自身と対話してあげてほしい。自分の現状が心底幸せでわくわくするものなら、そもそも他人に対してネガティブな感情は湧かないから。

そして、感じた悲しみや怒りをあなたの未来を良くするためのヒントにして昇華してあげてほしい。どんな感情も邪険に扱わないでほしい。

 

破壊と再生は必ずセット。安定の崩壊は今よりも欲しい未来を選ぶために訪れてくれている。そう信じて一緒に前へ進みましょう。

10月29日(火) 始めるよりも終えること

昨日は二日酔いの友達を看病しながら過ごした。日曜日に恋人とケンカしたあと、友達に付き合ってもらって深夜まで飲み歩いたのだ。2人して酔っ払って我が家でごろ寝した翌朝、目を覚ますと友達は布団の上で「気持ち悪い」と唸っていた。

幸いにも私は日頃から肝臓を鍛えていたおかげ(?)で二日酔いにならなかったけど、友達に申し訳ないことをしてしまった。でも付き合ってくれて嬉しかった…ありがとう。

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友達に果物やヨーグルトやコーヒーを差し入れたりしながら、私は私のやるべき課題に向き合って終わらせる覚悟をした。

日曜日のケンカは私が彼に対して少し支配欲というかコントロール欲というか、「こうなったらいいのにな」を人為的に引き起こそうとした結果でもあるし、彼に振り回されているという私の解釈(心理学上、出来事は事実に解釈を加えたものなので)の結果でもあると思う。

その根幹にあるのは「このままの状態が続くのは嫌だ」という焦りで、だけど実際の私は自分の現状を変えるような行動をあまりとっていない。博論は出せていないし、ZINEを売り出すことにも取り掛かっていないし、こないだ「小説を書きたい」と強く思ったのに書き出してもいない。口ばかりで夢を語って、いつか、と言いながら叶えることを先延ばしにしているのは他でもない私自身だった。

自分で自分の夢を叶える行動ができていないくせに、彼にばかり私の望みを叶えてくれと求めるのは違う。まずは私から。どんなときでも、自分を幸せにする選択と行動は、他人にしてもらうんじゃない。自分がやるんだ。

 

新しい状況を迎えるためには、今の状況を終わらせる必要があると思う。物事は余白に生じるのだと私は信じているから。

断捨離もそうだけど、先に捨てたり終わらせたりしなければ、新しい豊かさは手に入らない。

博論を終わらせる。年内に指導教員に出せる形にする。それを決めたら、背筋がしゃんと伸びた気がした。

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